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島田家の歴史と第一酒造

第1回 2017/6/10(土)午後1時30分

『島田家の歴史と第一酒造』

講師:島田 嘉内氏 第一酒造株式会社会長
場所:佐野日本大学短期大学大講義室

2017年6月10日(土)、晴天に恵まれるなか、佐野日本大学短期大学主催、佐野学市民講座「佐野の旧家を訪ねる」の開講式が、本学の大講義室にて行われました。約200名の市民の方々が集まり、会場は熱気を帯びた雰囲気に包まれました。


(会場はほぼ満員に)

式には佐野市長岡部正英様、唐澤山神社宮司(佐野家第47代当主)佐野正行様、佐野商工会議所会頭矢島堅司様をはじめ、多数のご来賓の臨席を賜りました。また、オープニング・イベントとして、越名(こいな)舟唄保存会の有志の方々が、佐野の伝統民謡、越名舟唄を披露してくださいました。

開講式に続いて、記念すべき第1回佐野学市民講座「島田家の歴史と第一酒造」が、同じく大講義室にて行われました。
講師は第一酒造株式会社会長の島田嘉内様です。

第一酒造は、延宝元年(1673年)創業、栃木県最古の酒蔵で340年の歴史を有しています。


(講演中の島田嘉内様)

島田様の冒頭のご挨拶を受けて、第一酒造に勤務する郷土史家の大高八三郎さんが、佐野から利根川をはさんで南側の地域、現在の埼玉県熊谷市の長井神社付近にルーツを有する戦国時代の土豪、嶋田氏についてお話くださいました。史料からは、北関東を舞台とする熾烈な勢力争いのなかで嶋田氏の領地(知行地)や地位が変化した経緯を読み取ることができます。嶋田氏は、戦国末期には佐野氏の客将に招かれましたが、与えられた知行地(小見と戸奈良)の推定位置から、比較的新参ながらも佐野家において重んじられていた、と解されるそうです。大高さんは、史料と対照しながら今日に残る地名や地形を調査した結果(上記の小見、戸奈良のほか、例えば嶋田縫殿助が木戸忠朝から恩賞として与えられた知行地「横和田」の比定)について詳しくお話しくださいました。

続いて講師の島田様から、田島村に帰農し、酒造をはじめた後の島田家に関する史料(例えば3代茂左衛門の時代の水車の証文や島田家と取引する江戸の酒問屋が使用した「名酒両国橋」の看板)の紹介、また歴代島田家当主に関する逸話や言い伝えの紹介がありました。今日島田家において初代当主とされるのは、延宝元(1673)年に小規模な酒造りをはじめた久左衛門。その後、田嶋村の名主をつとめた2代目弥一右衛門を経て、3代目から5代目にかけて家業の基礎作りが行われた。それを大きく発展させた6代目と7代目は、今日では島田家「中興の祖」と位置付けられている。その後、8代目から10代目にかけては佐野の産業・文化の発展とともに、島田家も順調に事業を進めてきた。この間、一貫して清酒製造業を営む傍ら、時代の要請に合わせて水車業、米麦集荷業、味噌製造、醤油販売、ビール販売などにも携わってきた。講師の島田様で11代目となる島田家の歴史は、大筋において以上のように捉えられるそうです。

島田家当主が代々名乗っている「嘉内(かない)」という名前は、文化人でもあった4代当主市右衛門菊渓が初孫誕生を祝って、その孫に与えたもの。市右衛門菊渓はそのとき「嘉内」という名前に託す思いを文章にし、さらにそれをもとに「冬知らぬ栄や松の名に叶い」という歌を詠んで残している。こうした風流な名付けの行いは、その頃植野村にいて多くの弟子を集めていた陽明学者中根東里の影響を受けたものではないか、とのこと。講義の中では中根東里の功績や、東里に関する碑文の紹介もありました。嘉内は長じて島田家6代当主となり、江戸の酒問屋との取引を拡大して、島田家の中興の祖となります。この6代嘉内と続く7代市右衛門はいずれも田嶋村の名主をつとめますが、昨年7月に国の有形文化財登録を受けた酒蔵、事務棟、母屋、米蔵などは、いずれも彼らの代に建てられたそうです。


(島田嘉内屋敷風景)


(有形文化財登録を受けた第一酒造の事務棟)

明治時代に入って、佐野地域の近代化がはじまると、8代嘉内は佐野銀行の設立、唐澤山神社の創建、佐野鉄道の発展等に深く関与します。唐澤山神社の創建に際しては当時大蔵卿を務めていた佐野常民(日本赤十字社の創始者、後に伯爵)が重要な役割を果たしましたが、島田家にはこの地を訪れた常民が宿泊したことがあるそうです。他方、本業の酒造業では、太平洋戦争後に大きな転機が訪れました。第10代(先代)嘉内は、質よりも量を重視する高度成長期の酒販売のあり方に疑問を抱き、東京市場から撤退して、地元市場の開拓を目指すことを決意します。その後、第一酒造は日本酒の級別廃止と新しい品質本位の分類基準導入に対応して、いち早く全量特定名称酒の方針に切り替えたそうです。当時の日本酒生産量は、普通酒8割、特定名称酒2割でしたから、この決断は大胆なものでした。

島田様は以上のような歴史を振り返り、(1)江戸との取引を拡大するという6代目嘉内の決断、(2)日本酒の値乱れを憂いて東京市場からの一時撤退を決めた10代嘉内の決断、そして(3)平成10年の全量特定名称酒への切り替えの決断、これら3つの決断が特に重要だったと述べられました。さらに今日の第一酒造は、日本酒業界を取り巻く時代の移り変わりを意識して、単により美味しいお酒を造るだけではなく、お客様へのアピールの仕方を工夫するようにしているとのこと。美味しいお酒の作り手は杜氏ですが、第一酒造は自社専属の杜氏育成に力を入れ、国家試験の「酒造一級技能士」4名(その後1名増えて5名)、栃木県の「下野杜氏」3名を抱えているそうです。またお客様へのアピールとしては、「大晦日絞り」「立春朝絞り」などのより季節感のある商品を提供するほか、「酒蔵見学」「ひやガーデン」「酒蔵茶屋」「酒蔵コンサート」など、お客様との直接的な交流の機会を重視しているとのお話でした。

講演の最後に島田様は、自分たちのルーツである埼玉県熊谷市で、代々長井神社の宮司をしている嶋田氏の子孫の方と最近交流を持ったというエピソードを紹介くださり、急速に世の中が変わっていく今日のような時代であるからこそ、家族愛、一族愛を持ち、堅実な家業を後世に伝えていくことが大切だと考えている、と結ばれました。

[動画(準備中)]

受講者の声

  • 島田家の歴史の重みに感動を致しました。日本国民として清酒を守って行きたいと思います。(70代女性の方)
  • 歴史が分かりやすい。先人の遺業に感動しました。第一酒造のファンになりました。(60代女性の方)
  • 大変貴重な御話、ありがとうございました。もっと詳しい話、例えば初代久左衛門がどうして酒造業をはじめたのか等もお聞きしたかったです。(30代男性の方)
  • 島田家と佐野の古くからの関りが、とてもよく分かりました。(40代女性の方)
  • 島田氏の歴史、酒蔵としての歴史、佐野氏との関わりについて知り得たのは、ありがたく思っています。維新後の佐野氏と島田家の関りをより詳しく知りたいと思いました。(80代女性の方)

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※文意を損なわない範囲で、一部文言を変更しております。ご了承ください。

参考リンク

[準備中]

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