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田中正造翁と蓼沼家の育英事業

第7回 2017/10/21(土)午後1時

『田中正造翁と蓼沼家の育英事業』

講師:蓼沼 恒男氏 三好砿業株式会社代表取締役社長
場所:佐野日本大学短期大学大講義室

10月21日(土)、佐野日本大学短期大学主催、佐野学市民講座「佐野の旧家を訪ねる」の第7回講座が、本学大講義室にて行われました。第7回の講師は、三好砿業株式会社代表取締役社長の蓼沼恒男様。講演タイトルは「田中正造翁と蓼沼家の育英事業」です。

今回で3週連続開催となった佐野学市民講座。秋の行楽シーズンと重なりましたが、200人近い参加者にお越しいただくことができました。蓼沼様の語りは自然体で、表現はむしろ控え目。しかし講演の最後に「育英にかける思い」を語った場面では情熱がほとばしり、聴衆の胸を打ちました。講義後に回収したアンケートにも、「感動した」という趣旨のコメントが多く見られました(後述)。


(講演中の蓼沼恒男様。左手に持って会場に見せているのは、
初代から3代目までの蓼沼丈吉が使用していた背負子の肩紐。)

蓼沼様のお話は、(1)蓼沼家の今と昔、(2)田中正造翁と蓼沼家の関係、(3)育英事業にかける思い、の3部構成で、蓼沼家のルーツと系譜に関する概要説明から始まりました。蓼沼家の祖先は美作国名木山城主三穂(さんぶ)氏の出であるとされ、1350年頃(室町時代)に佐野家の家臣になったと伝わるが、今回の講演のための準備では、その辺りの経緯はよく分からなかったとのこと。1816年(江戸時代後期)に初代丈吉が分家としての蓼沼家を起こした後、7代目までは代々「丈吉」を襲名してきたが、8代目(先代、講師の実父)の荘治が襲名しなかったので、自分としても躊躇いを感じている。その8代目は林業に携わる傍ら、1950(昭和35)年に三好砿業を設立。その後請われて田沼町長となり、2期務めたが、この間に田沼町立西中学校統合問題が過熱した影響などもあって、58歳で他界した。こうして講師の蓼沼様は、34歳の若さで9代目として家督を継ぐことになったそうです。

次いで講演は、現在の蓼沼家の事業(企業グループ)の紹介に進みました。グループの中核となるのは砕石業を営む三好砿業株式会社。株式会社ホンダベルノ新栃木は蓼沼様自身が29歳のときに起業したもの。菱桝造林株式会社は代々蓼沼家が家業としてきた林業を営むが、今日では自社所有地での営林だけでなく、高齢化で管理者を失った森林等について管理受託業を手広く行っている。そして、ドローン測量技術を活用して防災・減災事業等を営む晃洋設計測量株式会社。蓼沼様によると、栃木県の砕石生産は日本一で、羽田成田の両空港建設をはじめ、首都圏の主だった建造物は栃木県からの砕石供給なしには実現出来なかったとさえ言えますが、砕石業は山を切り開き、自然を破壊する側面も有します。鉱業と自然環境保全をいかに調和させるかは、代々林業にも携わってきた蓼沼様にとって難しい問題、「経営者としての悩みの種」である、とのことです。

もっとも、蓼沼家の最初の事業は林業ではなく、呉服(絹織物)や太物(綿麻織物)の行商でした。初代丈吉は足利桐生で仕入れた織物を佐野近辺で捌き、2代目は結城、水戸、相馬にまで足を延ばした。3代目から京都の織物も扱うようになった。4代目丈吉は水戸に出張所を設けるにいたった。こうして初代から4代目までは、行商で蓄えた資金で徐々に林や田畑を買い集めたそうです。なお、蓼沼家のルーツや初代並びに2代丈吉の事績は、佐野市岩崎町の八幡宮境内にある「雙徳碑」に記されています。また、夫が行商で不在がちの家を守り、98歳で他界するまでに多くの詩歌を遺した2代目丈吉夫人の智恵子は、蓼沼家に伝わる家訓「正直と倹約」を書き止めました。この智恵子は今日に至るまで蓼沼家にとって特別の存在となっているそうです。

次に田中正造との関係ですが、蓼沼様によれば、田中正造の自叙伝(「旧夢譚」)に、小中村の名主だった正造の父が(2代目)蓼沼丈吉から資金の融通を受けたとか、正造自身が名主時代にやはり2代目丈吉からお金を借りた、などの記載があります。他方、蓼沼家の育英生第1号は後に日本車両製造(株)の役員にまでなった前原勘七郎ですが、この人物は田中正造・カツ夫妻と深い関係のある人物でした。要するに、田中正造と蓼沼家とは、足尾鉱毒問題をめぐる協力関係以外にも、いろいろな結びつきを有していたわけです。なお、蓼沼家は現在、田中正造からの手紙を50通余り有していますが、それらの内容は「金銭の問題に触れ、相手に差し障りがあるので他人に見せてはならない」という先祖からの厳しい言いつけがあり、家族親戚の間でもほとんど知られていないそうです。蓼沼様も、今回の講演でその内容に踏み込むことは控えられました。

蓼沼家の中でも、4代目丈吉は田中正造と特に深い関係を有しています。蓼沼様によると、丈吉が栃木県議をしていたとき、県令60号(県内数か所に遊郭を設置する計画)をめぐる論争が起き、彼はこれを破棄させることに尽力しますが、この功績に対して正造翁から感謝の意を伝える手紙が送られています。また、1901(明治34)年、田中正造が直訴決行のため衆議院議員を辞職した後、丈吉は衆議院議員補欠選挙に立候補して当選しますが、このとき彼に立候補を促したのは正造の甥に当たり、先に言及した前原勘七郎の義兄にも当たる原田定助でした。田中正造の議席を継ぐ形になった4代目丈吉は、そのことを強く意識して、次のように述べたと伝わります。

「どうせ自分は百姓議員だ。名声の顕るるものなく、才幹の秀づるものはない。而も偉人田中翁の後継者として選出された自分が唯碌々として議会の一隅にその存在を無視されるのは心外だ。自分はこの蛮的な風貌と奇抜な名刺を振り回して足半議員には足半議員の主義主張と骨がある事を長袖議員に見せてやる。」

4代丈吉が衆議院議員だったのは1年足らずの短い期間でしたが、この間に大隈重信――大隈は田中正造とも親しかった――をはじめとする多くの重要人物の知己を得ました。大隈重信からは、後に丈吉が財団法人蓼沼慈善団を創設した際に多額の寄付金が贈られたほか、1919(大正8)年に彼が他界した際には、追悼録へ序文が寄せられています。


(4代目丈吉が用いた名刺「百姓兼商人 衆議院議員」)

蓼沼家の育英事業を始めたのは2代目丈吉ですが、それを「蓼沼慈善団」という形に組織化したのも4代目でした。蓼沼様はこの決断をした4代丈吉の思いを推し測り、年齢制限故に新教育制度の適用を受けることができず、小学校で学ぶことができなかった生い立ちのほか、若くして家督と家業を継いだ後、葛生銀行、佐野銀行、佐野鉄道会社等で要職を歴任し、また県政や国政にも関与する機会を得るなかで、自らの非力さを否応なく痛感したこと、さらに日本の将来を背負う優秀な人材の必要性を強く認識するにいたったことなどが、この決断に影響したのではないか、とお話になりました。また、4代丈吉が如何に質素倹約に努め、それによってコツコツと育英資金を蓄積したかを紹介されました。

今日でも蓼沼家の育英事業は、(1)奨学金は給付でなく貸与であるべきこと、(2)奨学金の授受は学生が来所して行うこと、ただし(3)返済期限は特に定めないこと、という3つの原則を、創業者の意思(遺志)として引き継いでいます。奨学金が給付ではなく貸与であるべき理由について、4代目丈吉は概要以下のように説明しています。

「事業者が不足資金を金融機関から借りて事業を営むのと同様に、学生も『自己完成の事業』を行うにあたり、その不足資金は他人から無償で貰うのでなく、他所から借用して充当すべきだ。学資を給付することは、相手を乞食扱いするのに等しい。これほど人間を侮辱する行為はない。」

学資貸与という形式に拘りながら、しかし特に返済期限を定めず、学生の主体的な計画に委ねる。蓼沼様のお話を伺いながら、若者が一人の人間として行う「自己完成の事業」を尊重せんとする姿勢――学生の人格を尊重するからこそ安易にお金を与えない優しさ――に胸を打たれた次第です。

さらに蓼沼様は、雪印乳業の創始者である黒沢酉蔵の「教育」をめぐる田中正造と4代丈吉の思想的な繋がり、3代目丈吉が京都三条壇王法林寺に当時の茶の仲間によって永代供養されていること、三好園の公益財団法人化に際しての苦労と公益財団法人化に拘った理由、かつて三好園が経営していた私立美術館三好館の開設と閉館の経緯など、多くのエピソードをご紹介なさった上で、最後に4代目丈吉の子息の婚姻によって築かれた親戚関係の広がりに触れ、「佐野の旧家」同士の繋がりを例解してくださいました。

[動画(準備中)]

受講者の声

  • 世の動きと田中正造翁ならびに蓼沼丈吉の出来事をうまく比較して、分かりやすく説明してくださり、勉強になりました。育英の理念に共感しました。(60代男性)
  • 蓼沼家の人を育てる熱い思い、また人を大切にする思いを強く感じ、感動しました。(60代女性)
  • 興味のある内容で、ユーモアを交えて講義いただけた。内容、進め方ともに、非常に聞きやすかった。(50代男性)
  • 2代目丈吉夫人、智恵子氏の家訓に感銘を受けました。現在でも指針にできると思いました。(80代女性)

※講座後のアンケートに寄せられたコメントの幾つかをご紹介しています。
※文意を損なわない範囲で、一部文言を変更しております。ご了承ください。

参考リンク

[準備中]

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