佐野学講座

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佐野庄と共に生きた佐野氏

第8回 2017/11/11(土)午後1時

『佐野庄と共に生きた佐野氏』

講師:出居博氏 佐野市教育委員会事務局文化財課長
場所:佐野日本大学短期大学大講義室

11月11日(土)、佐野日本大学短期大学主催、佐野学市民講座「佐野の旧家を訪ねる」の第8回講座が、本学大講義室にて行われました。第8回の講師は、佐野市教育委員会教育総務部文化財課長の出居博様。講演タイトルは「佐野庄と共に生きた佐野氏」です。

講演の冒頭、スライドで、唐沢山にある佐野正行宮司の御宅の居間から見た景色の紹介がありました。出居様のお話では、唐沢山城跡について文化庁調査官の方たちと意見交換をしていると、これほど立派な高石垣を持つ城郭遺跡が従来なぜ国指定史跡になっていなかったかを不思議がる人が多いそうですが、それ以上に多くの人に驚かれるのは、かつて唐沢山城があったまさにその同じ場所に、往時の城主たる佐野氏の末裔が今も住んでいる事実であり、そのようなことは全国的にも極めて珍しいことだそうです。佐野氏の祖とされる「佐野太郎基綱」の名前は、1183年(寿永2年)のいわゆる「野木宮合戦(志田義広の乱)」に際して源頼朝側に付いた人物として、中世史の重要史料である『吾妻鏡』の中にも見出されます(ただし『吾妻鏡』の年代記述には誤りがあると解される)。佐野氏はそこから数えて少なくとも834年の歴史を有している計算になりますが、今回の講演に際して出居様は、『田原族譜』『下野国佐野系図』等の史料を用いてご自身で佐野氏系図を作成し、会場用の参考資料として配布してくださいました。それによると、佐野宮司は藤原秀郷から数えて第48代目、佐野基綱から第35代目の佐野家当主になります。


(講演中の出居博様)


(第8回講座の様子)

佐野氏の源流である藤原秀郷については、「俵藤太の大百足退治」の伝説がよく知られていますが、今回の講演では唐澤山神社所蔵の『三井寺物語絵巻』から、近江瀬田の橋に横たわる大蛇を藤太が踏みつけて渡るシーン、その晩に大蛇の化身たる麗しい娘が藤太の泊まる宿を訪れ、大百足退治を依頼するシーン、鏃に唾を付け、南無八幡大菩薩と唱えて藤太が大百足を射倒すシーン、百足退治のお礼に藤太が竜宮城へ招かれて宝物を貰うシーンなどの美しい絵が、大枠の物語と共にスライドで紹介されました。この物語では、秀郷(=藤太)は当初から勇者として描かれています。他方、平安時代の史料が伝える藤原秀郷の実像はどうかと言うと、平将門登場前後で大きくイメージが異なるそうです。すなわち、『日本紀略』『扶桑略記』等の初期の記述を見ると、下野国司の視点から秀郷を「罪人」あるいは「乱暴者」と捉えている。当時の東国にはまだ中央集権的な統治権力が完全に及んでいたわけではなく、様々な勢力が闘争を繰り広げていたので、秀郷を「罪人」や「乱暴者」とする捉え方も絶対的なものとは言い切れないが、ともかくこの頃の史料に描かれた秀郷のイメージはネガティブなものである。これに対して時代が下ると、天慶3(940)年に将門追討の太政官符が発令されるや秀郷は押領使に任じられており、さらに将門征討の武功によって朝廷から従四位下と功田を賜って、下総守・武蔵野守に任じられたと伝えられている。こうして「平将門の乱の鎮圧者」として藤原秀郷のイメージが確立され、やがて秀郷を祖先に持つことは武門の一条件と認められるようになっていった。佐野氏が「武門の家」として知られるようになったのも、まさに秀郷を祖に持つ家柄であるという事実に負うところが少なくない、とのこと。さらに出居様は、藤原秀郷を祀る神社は栃木県内でも県南、特に佐野市に圧倒的に多いことを指摘し、この地に秀郷公を神として崇める古くからの伝統が根付いていることを意味するのではないか、との見解を示されました。


藤原秀郷ゆかりの神社の分布
(出居博著『戦国唐沢山城(増補版)』13頁より)

藤原秀郷を祖先とする家系は日本各地に数多くありますが、その一つ(藤姓足利氏の庶流)が佐野の地に土着して「佐野氏」を名乗るようになったのは、先述のとおり「佐野太郎基綱」以来と考えられています。ただし、佐野氏の系図を辿ると、基綱の数代前に位置する足利成俊が既に「佐野庄司」に任じられていたと記録されています。そこで、佐野庄の成立時期を探ると、平安前期の史料(『和名類聚抄』)に記された安蘇郡4郷のなかに佐野の地名は確認されませんが、平安時代後期の『兵範記』には佐野庄に関する確実な記述が見つかります。この頃の東国では、天元元(1108)年の浅間山大噴火の後、各地の豪族的武士団により新しい私領(寄進地系荘園)の開拓が進められていましたが、新田庄や足利庄の場合と同じく、佐野庄の成立もそのような脈絡に位置するもの、と解されるそうです。また、佐野庄内の地名について中世から近世にかけての史料を網羅的に調査すると、中世の佐野庄は堀米以北の地域で、天明以南(相対的に豊かな穀倉地帯)は幕府直轄地だったものが、戦国期に入って佐野氏が実力を付けるに伴い、しだいに南進を果たし、現在の佐野市南部を勢力圏に取り込んでいった様子を窺うことができるそうです。

佐野氏の勢力拡大の経過について、出居様は、次のような解釈を示されました。佐野氏は最初からこの地方で最有力の一族であったわけではない。平安時代から鎌倉時代にかけて、佐野氏と阿曽沼氏が勢力を競い合っていた。鎌倉時代の史料(『吾妻鏡』)は、むしろ阿曽沼氏の方が佐野氏よりも優位にあったことを示唆している。ところが南北朝期に阿曽沼氏が南朝に与し、佐野氏が北朝に与したことから両者の優劣は逆転し、やがて戦国期に入ると阿曽沼氏は佐野氏の配下に降る。逆に佐野氏は淡路国、伊豆国、越中国などにも知行地を獲得して、勢力を強めていった。戦国期の佐野氏は、堅固な山城である唐沢山城に本拠を構えると同時に、領境7か所に出張城、また領内各地に御家門屋敷を13か所、合計20か所の出城を構えて、下野国内の本領の守りを固めていたそうです(『佐野武者記』)。

ところで、佐野庄の位置する秋山川と旗川に挟まれた地域は、かつてはその大部分が氾濫原でした。この一帯で比較的安定した土地と言えば、氾濫原の北端に位置する「能忍地(のうねんじ)」付近ですが、そこが黎明期佐野氏の本拠地だったのではないか、と考えられるそうです。その後、(1)佐野家が力をつける中、氾濫原内の微高地に清水城が築かれる一方、氾濫原の開拓と水路整備が進められ、やがてさらに南側へと勢力圏が広がっていきます。次いで、(2)戦国期に入って周辺豪族のみならず、北条家や上杉家からも領地を守る必要に迫られると、佐野氏は唐沢山城へと本拠を移転しました。そして、(3)戦乱の世に終止符が打たれ、産業と流通・経済に基づく新たな地域経営(街づくり)の時代が訪れると、領内の南部、天明の春日岡が政治の拠点に選ばれます。出居様によると、佐野の地には現在も(1)〜(3)の拠点変遷に伴う異なる時代の地割り(町割り)の跡が残っていますが、これは全国的にも極めて珍しいことで、最近は佐野市が研究者の注目を集めているそうです。


佐野氏の本拠の変遷 (当日配布資料を基に作成)

戦国大名としての佐野氏(佐野家)が拠点とした唐沢山城は、越後上杉家の拠点(春日山城)と相州後北条家の拠点(小田原城)の双方からほぼ等距離のところにあり、佐野は2大勢力間の「境目の地」とみなされていました。上杉にとっても、北条にとっても、関東全域を支配しようとすると、佐野が「要」の位置になる。その結果、唐沢山城はしばしば大きな戦の舞台となり、一時は上杉家に支配され、後には佐野家の家督自体が北条氏によって一時的に「乗っ取られる」ことにもなりました。さらに戦国時代の末期には、天徳寺宝衍を中心とする佐野家内部の反北条一派が豊臣秀吉の側近に取り立てられ、小田原城攻めに際しても重要な役割を果たします。他方、北条氏系の佐野家当主(氏忠)は、小田原城の守備に就いていました。小田原城攻めは、「関東支配の要」に位置する佐野家の家督争奪戦という一面をも有していたわけです。小田原落城後、天徳寺は秀吉直臣として伏見城下に屋敷地を与えられます。また天徳寺は一時的に佐野家の家督を継ぎ、さらに彼の養子となった佐野(富田)信吉が佐野家当主となります。なお、一般にはあまり重視されていませんが、このとき信吉には豊臣姓も下賜されています。講演では、この間の経緯を物語る重要史料として、永禄9年5月9日付の上杉謙信自筆の祈願書、天正14年8月26日付の徳川家康書状(北条氏直宛)、同じ天正14年の5月25日付で発せられ、いずれも佐野家の家督問題に関連して天徳寺の家臣である「山上道牛」に言及した3通の書状(天徳寺宝衍書状、豊臣秀吉朱印状、増田長盛石田三成連名書状)等が、次々とスライドで紹介されました。

こうして多難な戦国時代をどうにか生き延びた大名佐野家でしたが、秀吉が他界し、家康の時代が来ると俄かに苦境に立たされ、慶長19(1614)年3月佐野城破却、同年7月には改易処分を受けて、当主信吉は身柄を松本(小笠原氏)に預けられてしまいます。佐野家旧臣は江戸幕府に対してお家再興に向けた働きかけを行い、寛永11(1634)年に信吉は赦免されますが、江戸への道中で発病し、再興の夢を果たさないまま息を引き取ります。その後も佐野家旧臣の団結は失われず、旧主の法要に際して帯刀して集合することもあったそうです。やがて佐野家は幕府から新たに知行地を与えられて旗本となり、最終的には計約3,500石を知行して江戸で幕末を迎えますが、佐野家旧臣の想いは明治時代まで絶えずに続き、それが秋山林策らによる唐澤山神社創建(第4回講座参照)へと繋がったと言います。

佐野市郷土博物館学芸員(考古学者)として多数の遺跡調査事業に携わった経歴を有するだけでなく、佐野氏の系譜と拠点について広範かつ丹念な史料調査を行い、『戦国唐沢山城―武士たちの夢の跡』と題する著書も公刊されている出居様のご講演は、お話の筋道は簡潔明瞭ながらも博引傍証、まさに本年度佐野学市民講座「佐野の旧家を訪ねる」の最終回を飾るに相応しい質と内容でした。出居様は最後に佐野氏の系譜に再び触れ、「ここまで長い系譜を辿ることができる家が(私たちがハイキングで訪れることができるような)身近なところに存在するのは、それだけで無形文化財と言えるのではないか」と述べ、唐沢山の神社と城跡を良い形で後世に伝えていきたいとの決意を表明して、講演を結ばれました。

[動画(準備中)]

受講者の声

  • 思った以上に佐野の歴史と学校で習った日本史上の大事件がリンクしていて凄いと思いました。(10代女性の方)
  • 資料を読み解き、わかりやすく解説していただき、大変勉強になりました。佐野に生きていくことに誇りを感じます。(40代男性の方)
  • 長い歴史を1時間でまとめて話すことには苦労されたと思う。もっと時間をかけて聴きたいと思いました。(60代男性の方)
  • きちんと資料に基づいた話で説得力があった。造詣の深さがにじみ出ていました。(80代男性の方)

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※文意を損なわない範囲で、一部文言を変更しております。ご了承ください。

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