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天徳寺宝衍を考える

第2回 2018/6/23(土)午後2時00分

『天徳寺宝衍を考える』

講師:出居 博氏 佐野市教育委員会文化財課長
場所:ホテルサンルート佐野 平安の間

2018年6月23日(土)、平成30年度佐野学市民講座「知られざる佐野ゆかりの偉人」の第2回講座が行われました。今回は、初めて会場を短期大学の外に移し、ホテルサンルート佐野2階の「平安」の間での開催となりました。

本講座で通常使用している佐野日本大学短期大学の大講義室よりも数段広い会場でしたが、350名近い大勢の市民の方々がお越しになり、満席に近い状態となりました。また今回ホテルの会場を使用するに当たっては、佐野市伝統文化地域振興財団様からのご厚意を賜りました。記して感謝申し上げます。


(会場の様子。豪華な雰囲気でした。)

講師は、佐野市教育委員会文化財課長の出居博様。講演タイトルは「天徳寺宝衍(てんとくじ・ほうえん)を考える」です。

今回は、当初お越しいただく予定であった粟野俊之氏(戦国史家)の体調悪化に伴い、急きょ出居様に同じテーマでお話をいただく運びとなりました。出居様には昨年11月の佐野学市民講座(第8回)でも「佐野庄と共に生きた佐野氏」と題するご講演をいただいており、無理を言って2度目のご登壇をお引き受けいただく形となりました。


(司会の紹介を受ける出居様)

講演の冒頭、出居様にお話をいただくに先立って、司会から「天徳寺宝衍」という人物と彼が生きた時代についての簡単な紹介がありました。天徳寺が活躍したのは今から約450年前、戦国時代末期のこと。彼はその頃の佐野家当主である佐野昌綱や、その子の宗綱を支える存在であり、後には自分自身も一時的に佐野家当主の座に就いた人物として知られている。当時北関東では、甲斐武田家、越後上杉家、小田原北条家が三つ巴の激しい勢力争いを繰り広げていた。また少し後になると、武田家の滅亡、上杉家の弱体化に伴い北条家が急速に支配域を広げるなかで、天下統一を狙う織田家や豊臣家が関東方面にまで影響力を及ぼしてくるという状況が生じた。この激動の時代、北関東の土豪や大名家は、軒並み生き残りを図るのに苦慮していた。そうした中で天徳寺宝衍は、織田家や豊臣家と密な関係を築きつつ北条家に対抗する方針を貫き、豊臣政権下でも佐野家を存続させることに成功する。関ケ原の戦いの後、徳川政権によって佐野家が改易されてしまったため、天徳寺の成し遂げたことの意義は見失われがちであるが、粟野先生の先駆的な研究をはじめとして、近年徐々に天徳寺宝衍という人物を見直す動きが生じつつある。おおよそ以上のことを司会が述べた後に、司会が投げかける質問に講師の出居様が答えるというインタビュー形式――急な講師変更に伴い準備時間が不足したために採用したもの――での講義が始まりました。以下、その模様を簡単に記録いたします。

(質問) 天徳寺宝衍は出家してお坊さんになっていたのに、同時に剣術の達人でもあったという話を聞いたことがあります。この話は単なる言い伝えなのか、それとも史料によって確認できる確実な話なのか、その辺りからご説明いただけますか?

(答え) 天徳寺については、江戸時代に書かれた「軍記物」の中で、しばしば文武両道に優れた人物であったとか、武者修行を志して旅に出たという話が書かれていますが、剣豪として具体的にどういう活躍をしたかを記した同時代の史料は、まだ見つかっていません。しかし、「無敗の剣聖」と言われる塚原卜伝について紹介する鹿島市のホームページやパンフレットには、卜伝が諸国を巡る途中に佐野に立ち寄り、佐野家の居館に迎えられたことが記されていいます。天徳寺宝衍をはじめとする佐野家家中の主だった武将達が卜伝の弟子になったことも記されています。また剣術史に関する専門文献(例えば今村嘉雄ほか編『日本武術全集第2巻』所収の「天真正伝新当流兵法伝脉」)の中にも同様の記述が見つかります。これらの記述がどういった史料に基づくものかは知られておらず、今後の一層の研究が俟たれる分野です。

(質問) 天徳寺宝衍については佐野市内にとても立派な顕彰碑があると伺っています。どういうものかを教えていただけますか?

(答え) 佐野市山形町にある報恩寺に天徳寺宝衍を称える顕彰碑がありますが、私が知る限り、これは佐野市内で最古の顕彰碑です。顕彰碑と呼ばれるものの多くは明治時代以降に建てられたものですが、天徳寺のものは江戸時代中期の寛延3(1750)年に建立されています。写真(後掲)では一見普通の墓碑のようにも見え、実際に今日では墓所としての意味合いも備えているのですが、裏面にはびっしりと天徳寺を顕彰する碑文が刻まれています。内容は、とても全部は紹介できないので幾つかピックアップしますと、?天徳寺は文武両道に秀でた英士であったこと、?幼いころ東明寺で剃髪し、赤見満願寺で修行をしたこと、?諸国武者修行の旅に出たこと、そして?関白秀吉公に付き従って北条征伐で軍功を挙げたこと、などが記されています。

(質問) 顕彰碑が建てられたのは江戸時代中期というお話でしたが、そのとき天徳寺の没後どれくらいの年月が経っていた計算になるのですか?

(答え) 天徳寺の150回忌に際して建てられたものです。3回忌とか13回忌とかでなく、150回忌にわざわざ顕彰碑を建てたということから、当時の地元の人々の間で天徳寺宝衍がいかに尊ばれていたかがよく分かるだろうと思います。さらに写真の左側に見えるもう一つの顕彰碑と中央墓碑を囲む石の柵の部分は、明治33(1900)年に没後300年を記念して建てられたものです。


(報恩寺境内にある「天徳寺殿碑」と裏面の碑文)

(質問) 顕彰碑に秀吉公との関係が書かれているそうですが、もう少し具体的に、天徳寺宝衍と豊臣秀吉との関係をお話ください。

(答え)天徳寺宝衍と豊臣秀吉との関係についてはかなり多くの史料が残っており、粟野俊之氏や松本一夫氏をはじめとする文献史学の専門家達によって詳しい調査研究がなされています。それを踏まえて、特に重要なものを紹介すると、例えば天正17(1589)年11月28日に豊臣秀吉が太田道誉宛に発した朱印状(写)が注目されます。ここで秀吉は、北条討伐のために出馬する意向を伝えるのに天徳寺宝衍と石田三成の両名を使者に選んでいる。つまり、秀吉の側近中の側近である石田三成と天徳寺宝衍とがまったく同列に扱われているのです。その少し前、同じ年の11月11日に天徳寺宝衍自身が木戸元齋宛に発した書状によると、天徳寺は秀吉に「幡本(旗本)」として仕えていた(つまり近臣であった)と記されています。また、その天徳寺に対して秀吉が度々小田原征伐の計画を伝えていたことも記されています。これらのことから、秀吉にとって天徳寺は心を開いて話ができる相手であった、と言えると思います。
 さらに翌天正18年7月、小田原城落城直前に秀吉側近の増田長盛が天徳寺宝衍に宛てて発した書状(写)があります。これには、北条家当主直氏の切腹と引き換えに親類や家臣の助命を直氏自身が願い出ていることなど、極めて重要な事項が記されています。また長盛は、奥州仕置のため宇都宮に赴く秀吉が佐野には立ち寄らない予定であることを、わざわざ天徳寺に伝えています。さらに天徳寺が秀吉に差し出した「絵図」を秀吉自身が実際に見た旨までも記されています。これらのことから、秀吉にとって天徳寺が如何に大切な存在であったか(繊細な心配りを必要とする相手であったか)を読み取ることができるでしょう。なお、この手紙の「絵図」に該当すると考えられる「下野国絵図」が、今日も佐野市内の旧家に残っています。

(質問)ここまでのお話で、小田原攻めの関係で天徳寺宝衍が秀吉に重用されていたことはよく分かったのですが、その後はどうなったか、何か分かっていることはありますか?

(答え)秀吉が築いた伏見城下では、豊臣政権に従う大名に対して身分や地位に応じた屋敷地が与えられていましたが、天徳寺宝衍にもかなり大きな屋敷地を与えられていたことが分かっています。しかも、当時佐野家当主は天徳寺に養子入りした佐野信吉(秀吉奉行衆の1人冨田一白の5男)に移っており、信吉には別の屋敷地が与えられていました。伏見城本丸からの距離を見ると、信吉の屋敷の方が近いけれども、屋敷地の広さは天徳寺の方が倍ほど大きい。つまり、佐野家隠居の天徳寺にわざわざ専用の大きな屋敷地が与えられていたわけです。この事実も、天徳寺と秀吉の関係を推し量る上での重要な判断材料になるでしょう。

(質問) 天徳寺宝衍が豊臣秀吉から授かったと伝わる「龍綺(りゅうき)の兜」について教えてください。 これは本当に秀吉公から授かったものなのでしょうか? また写真(後掲)を見ると非常に独特の形をしていますが、この形状には何か特別な意味があるのでしょうか?

(答え) この兜は内側の2箇所に朱書きがあります。1つには秀吉が信長から拝領したものであること、もう1つには天徳寺が秀吉から賜ったものであることが記されています。また、この兜には由緒書が残っていて、それによると天徳寺は後にこの兜を家臣の福地出羽守昌寧に与え、福地家は代々これを守ってきたが、唐澤山神社創建に当たってこれを神社に奉納したとされています。これらの朱書きや由緒書は後世のものですが、専門家に調べてもらったところ兜自体は戦国時代に遡るものである可能性が高いとのことでした。また、この独特の形状についても調査してもらったところ、張良が老人から太公望の兵法書を授かったことを内容とする中国の故事に基づくものであることが分かり、佐野市文化財指定当時に「波(なみ)に巻子(かんす)形(なり)兜」との正式名称をいただきました。「龍綺」は号になります。


(波に巻子形兜 号「龍綺」)

(質問) 今日のお話を聞いて、天徳寺宝衍ゆかりの地を訪れてみたいと思った方がきっといらっしゃると思うのですが、佐野市内に天徳寺を偲ぶことができるような場所がありますか?

(答え) (1)天徳寺が幼少時にいた東明寺は残念ながら残っていませんが、東明寺跡には今日も藤原秀郷のものと伝わる廟が所在しています。(2)天徳寺が修行をした赤見の満願寺は今日も健在で、枝垂桜でとても有名です。(3)小田原落城後に天徳寺が佐野に戻った後に住んだ赤見城跡や、(4)隠居後に移ったとされる阿土(安戸)山城下の金蔵院などもあります。天徳寺の母親は赤見氏の娘であったと伝わっており、赤見は天徳寺と関係の深い土地であったと考えられます。その他、(5)佐野家歴代の墓所がある本光寺には天徳寺宝衍宝篋印塔が、また(6)唐沢山城には天徳寺が住んだと考えられる天徳丸跡がありますが、最後の天徳寺丸跡は今日一般の方は立ち入れませんので、ご注意ください。


(講演中に紹介された天徳寺宝衍ゆかりの地)

(質問) 最後に文化人としての天徳寺宝衍についてお聞かせください。天徳寺は文武両道に優れた英士であったという趣旨の伝承が残っているとのことですが、文化人としての側面について分かっている事実はありますか?

(答え) その点についても文献的な調査研究が進められておりますので、その一端をご紹介します。天徳寺宝衍は秀吉の九州攻めにも随行していました。そのとき博多の地である宣教師(ガスパル・コエリュ)に出会うのですが、ルイス・フロイスは著書『日本史』のなかでこの宣教師からの情報を基に天徳寺について書き残しています。それによると、天徳寺は「思慮分別がある人物」で、当時の足利学校の「第一人者」である。また「知識欲が旺盛」で、熱心に司祭たちのところに訪れてはヨーロッパやキリスト教のことを質問してきた、と記されています。
 加えて、天徳寺宝衍と京都の有力な公家たちとの間に早くから文化的な交流があったことも徐々に判明しつつあります。例えば、『言継卿記』天文17(1548)年5月24日の条には、「下野天徳寺(佐野子云々)」が若くして京都の公家衆に混ざって蹴鞠会に参加していたことが記録されています。また、同じ『言継卿記』の天文19年5月29日の条によれば、天徳寺宝衍は藤原定家の歌集『詠歌大概』の写本(しかも後奈良天皇の子で、後に天台座主となった覚恕が書写したもの)を山科言継卿から贈られています。さらに天正20(1592)年8月28日に木戸元斎が記した『詠歌大概聞』(『詠歌大概』の注釈書)の奥書には、天徳寺がこの本を書写することを懇望した旨が記されています。これらのことから、天徳寺宝衍が当時の一線級の教養人たちと広く交流していたことが分かります。天正7年に山上道牛が京都に赴いて狩野松栄(英徳の父)に書かせたとされる佐野昌綱像の背後にも、京都の文化人サークルと深いつながりを有していた天徳寺宝衍の存在があったと考えられます。

インタビューを終えるにあたって出居様は、室鳩巣(むろきゅうそう)(江戸時代中期における朱子学の第一人者)が天徳寺宝衍を引照しながら文武両道の重要性を説いた文章(『駿台雑話』第2巻「仁は心のいのち」)の一部を紹介されました。天徳寺宝衍という人物が江戸時代にどのようなイメージで捉えられていたかを示唆する興味深い文章として、敢えて長めに原文を紹介いたします。

相州北条の幕下、佐野の城主天徳寺、豪健の勇将なりしが、ある時琵琶法師を招て、平家を語らせて聞けるに、いまだ語らぬ先に琵琶法師にいひけるは、「某はたゞあはれなる事をきゝ度こそあれ。其意得して語り候へ」といへば、法師、「心得候」とて、佐々木四郎高綱が宇治川の先陣を語けるに、天徳寺あはれがりて雨雫と泣ける。さて「今一曲前の如くあはれなる事をきゝ度」といへば、那須与市宗高が扇の的を語りけるに、半より天徳寺また落涙数行に及べり。後日に家臣の輩に、「過し日の平家はいかゞきゝつる」といふに、家臣ども、「尤おもしろき事にて候。但我等どもひとつ意得ぬ事こそ候へ。前後二曲ともに、勇烈なる事にて、あはれなるかたはすこしも候はぬに、君には御感涙に咽ばれて候、是はいかゞの事にて候にや。今に不審なる事にいづれも申あひ候」といへば、天徳寺おどろきて、「只今迄は各を頼もしく思ひ候しが、今の一言にてさて〳〵力をおとして候。先佐々木が先陣をよく合点して見られ候へ。頼朝舎弟の蒲冠者にも賜らず、寵臣の梶原にもたまはらぬ生唼を、高綱に賜るにあらずや。されば其甲斐もなく、此馬にて宇治川を先陣せずして、人に先をこされなば、必討死してふたゝび帰るまじきと、頼朝にいとま乞して出ける、其志を察して見られよ。あはれならぬ事かは」とて、しば〳〵ありていひけるは、「又那須与市も、大勢の中より撰ばれて、たゞ一騎陣頭に出しより、馬を海中に乗入て的にむかふに至る迄、源平両家鳴をしづめて是を見物するに、もし射損じなば、みかたの名をりたるべし。馬上にて腹かき切て海に入むと覚悟したる、心を察してみられ候へ。武士の道程あはれなる物は候はず。某は毎に線上に臨ては、高綱宗高が心にて槍を取候故、右の平家を聞時も両人の心を思ひやりて、落涙にたへざりし。しかるに各にはあはれになかりしと申さるゝにつけて思ふに、各の武辺は、たゞ一旦の勇気にまかせて 真実より出るにてはなきにやと思はれ候。それにては頼もしからずこそ候へ」と云しかば、諸臣皆迷惑して、辞なかりしとなり。是天徳寺が武辺は涙より出れば、もとより仁者にはあらねど、武の一筋は仁に根ざして、惻隠の心より発するにあらずや。然るに武は殺獲の事にて、手あらき道なれば、いはゞ仁とは黒白のたがひあるやうなれども、仁より出ざるは真の武にあらず。況や其余の事はなほもてしるべし。されば忠孝も礼義も、文道も武道も、内より油然として潤ひわたりて発するにあらざれば、真のものにあらず。是則前にいひし人に情あり、物の哀をしるの心なり。すべてもろ〳〵の言行ともに、義理に当てはこと〴〵く忍びざるの心より出て、天徳寺が涙をこぼすやうにだにあらば、是心徳の全きなり。

[動画(準備中)]

受講者の声

  • 天徳寺宝衍を初めて知りました。講師の説明はとても分かりやすかった。インタビュー形式も悪くないですね。(60代男性の方)
  • とても分かりやすかったです。天徳寺宝衍について関心を持つことができ、ゆかりの地を訪ねてみたいと思いました。(60代女性の方)
  • もっと聞きたい、貴重な内容のお話でした。天徳寺宝衍をはじめて知り、大変興味を持ちました。短い時間なので、インタビュー形式でない方がたくさん講師のお話を聞けたかも?(60代女性の方)
  • 「○○を考える」というタイトル自体、日頃立ち止まって物事を振り返る機会が少ないなかで、改めて大切なことであると感じました。ただし、今回はかなり専門的な内容で、一般人の私としては、短時間で理解するのは少し難しいと感じました。(50代女性の方)
  • ピンチヒッターという事で準備のご苦労があったと思います。大変理解しやすく、より興味がわきました。(40代男性の方)

※講座後のアンケートに寄せられたコメントの幾つかをご紹介しています。
※文意を損なわない範囲で、一部文言を変更しております。ご了承ください。

参考リンク

[準備中]

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