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正田淑子が求めたもの:社会福祉と女性の権利

第3回 2018/7/14(土)午後1時

『正田淑子が求めたもの:社会福祉と女性の権利』

講師:永倉文子氏・落合由美子氏 佐野女性史研究会
場所:佐野日本大学短期大学大講義室

2018年7月14日(土)、平成30年度佐野学市民講座「知られざる佐野ゆかりの偉人」の第3回講座が行われました。講師は、佐野女性史研究所会の永倉文子様と落合由美子様。講演タイトルは「正田淑子が求めたもの:社会福祉と女性の権利」です。


(今回も200名近い方が参加してくださいました。)

佐野学市民講座はこれまで10回(昨年8回、今年2回)行われましたが、女性の方が講師をつとめるのは今回が初めて。また、今回の講演は「正田淑子(しょうだ・よしこ)」という一人の女性にスポットライトを当てていますが、本講座が「女性」をテーマにするのもこれが初めてです。


(司会者の紹介を受ける永倉様と落合様)

講演前半を担当した永倉様は、正田家の家系と淑子の人生の歩みの概略についてお話になりました。また、佐野から東京へ出て、華族女学院(現学習院初等科)、普連土女学校、そして日本女子大学(1期生)に学んだ淑子が、明治43(1910)年、33歳にして単独アメリカへ留学し、若いアメリカ人学生に交じって苦学した様子についてもお話になりました。後半を担当した落合様は、アメリカ留学から帰国した後、日本女子大学社会事業部教授に就任した淑子が、どのような考えに基づき、どういった活動をしたかを、具体例やエピソードを交えつつお話になりました。

正田家は天明鋳物師の最も古い家系(いわば宗家)の1つとして知られ、伝承では藤原秀郷が河内国丹南郡から連れてきた5人の鋳物師の1人、正田又右衛門を祖とします。その正田又右衛門に連なる一族のなかでも特に繁栄を極めたのが、文化8(1818)年生まれの8代目利右衛門(本名利一郎)でした。幕末に彦根藩佐野領の御用金掛をつとめていた利一郎は、明治維新後は栃木県初の私立銀行である佐野合本銀行設立に尽力したほか、鉱山開発、酒造業、外国貿易、鉄道事業(両毛鉄道)など多くの事業に関与しました。永倉様によれば、利一郎の孫で、佐野銀行初代頭取をつとめた章次郎は渋沢栄一の娘シズを妻とし、渋沢が経営する王子製紙とも取引をするなどさらに事業を拡大して、一時は「政府指定の御用商、正田組」とも称していたそうです。佐野の金吹町に大きな鋳物工場があり、隣接する屋敷(別邸)は明治22年に英照皇太后(明治天皇の母)の御在所としても使われました。また東京には正田家の豪邸がありました。淑子は正田章次郎の妹キクの長女で、章次郎の姪、利一郎の孫にあたります。ただし、正田家の事業にはその後徐々に陰りが見えるようになり、アルミニウムの登場によって銅鉄鋳物製造業全体が大打撃を受けたこともあって、章次郎の次の代には鋳物業から撤退したと言います。


(正田利一郎邸、大日本博覧図より)

淑子の生涯のあゆみは年表をご参照ください。講演の際のスライドを基に作成したものです

年月日 年齢 出来事
明治10(1877)年1月24日 0歳 安蘇郡佐野町(現佐野市金吹町)に生まれる
明治16(1883)年頃 6歳頃 華族女学院入学
これを期に佐野市金吹町から東京へ移る
明治22-3年頃 12歳頃 普連土女学校入学
明治34(1901)年 24歳 日本女子大学校入学
明治37(1904)年 27歳 日本女子大学校英文科卒業
桜楓会教育部長となる
 2月、日露戦争勃発
明治43(1910)年 33歳 アメリカ留学
 コーネル大学→イサカ高校
 →コロンビア大学→同大学院
大正13(1924)年 47歳 帰国
大正14(1925)年 48歳 日本女子大学校社会事業部教授就任
2代目学部長となる
昭和3(1928)年8月13〜17日 51歳 汎太平洋婦人会議に参加
昭和6(1931)年〜 54歳 読売新聞の人生相談回答者となる
 人生相談「悩める女性へ」
昭和8(1933)年 56歳 日本女子大学校退職
昭和14(1939)年 62歳 満洲へ渡る
昭和17(1942)年1月15日 65歳 満洲で逝去

年表中にある「華族女学院」は現在の学習院初等科にあたり、淑子は馬車で通学していたとのこと。また「普連土女学校」は、新渡戸稲造と内村鑑三の助言を受けてキリスト教フレンド派(クエーカー)の婦人伝道協会が明治20年に創設した中高一貫教育の学校です。

明治34年4月、淑子は日本女子大学校に入学しますが、同校はこの年に設立されたばかりで、淑子は第1回入学生でした。3年後の明治37年3月には淑子を含む6名が英文科第1期生として卒業します。卒業後、淑子は日本女子大学校第1回生が設立した同窓組織で、今日の言葉で言えば「生涯学習」に奉仕することを目標に掲げていた桜楓(おうふう)会の教育部長に就任します。当時桜楓会には勤労少女のための夜学会、夜間女学校、託児所などが設置されていたそうです。

明治43年、社会学(社会調査)の勉強を志し、アメリカ、ニューヨーク州のコーネル大学に留学します。しかし英語力不足を痛感し、2年後には同州イサカ高校に入って英語の勉強をやり直します。高校卒業後、今度はコロンビア大学に入学。正田家の事業が苦しくなっていたこともあり、留学資金を送ってもらえなかったため、タイピストなどの仕事をしながら学校に通ったそうです。さらに4年後、大正9(1920)年、コロンビア大学を卒業して同大学大学院に進学し、3年後に大学院を修了してM.A.(マスター・オブ・アーツ文学修士)の学位を授与されます。その翌年、大正13(1924)年に帰国。年齢の壁をものともせず、働きながら学校に通い続け、14年間にわたって学び続けた淑子の留学生活を総括して永倉様は、正田淑子という女性が如何に強い意志の持ち主であったかを強調されました。


(淑子のアメリカ留学手記、講談社「婦人倶楽部」1928年12月号より)

留学中に淑子が学んだのは「ソーシャルワーク(social work)」でした。日本語ではなかなか適当な訳がありませんが、今日では「社会福祉」と呼ばれる研究教育と援助実践の両面にわたる分野で、労働者教育なども含みます。淑子がアメリカから帰国する前の年、大正12(1923)年に日本では関東大震災が起きており、東京は復興の真っ只中でした。また落合様によれば、当時の一般的な時代状況は次のようなものでした。?一方には「大正デモクラシー」と呼ばれる進歩的な側面があったが、他方では「明治維新以降の急激な社会変革や第1次世界大戦の影響などで貧富の差が拡大」し、東京には当時「貧民窟」と呼ばれたスラム街があちこちに形成されていた。?欧米諸国では貧民救済事業のあり方が大きく変化し、それが日本にも影響を与えつつあった。すなわち、従来は富者が貧者に施すという慈善事業だったものが、国家政策としての社会事業(社会福祉事業)に公的な組織が取り組む(税金を投入する)という形に変化しつつあった。そして?この社会事業に携わる専門家養成のため、大学に社会事業関連学部が新設されるようになっていた。大正10(1921)年、2代目学長麻生正蔵の指導の下、日本女子学校にも社会事業学部が新設されます。淑子は帰国後間もなく同校教授(社会学及び英語担当)に就任し、社会事業学部の2代目学部長に抜擢されます。

日本女子大学校社会学部で淑子が担当したのは主に4年生の見学調査・実習の科目で、引率した見学先は小菅刑務所、栃木女子刑務所、片倉製糸工場、松沢精神病院、日暮里貧民窟等々、実習先には下谷金杉精神病院、日暮里愛隣園、桜楓会託児所、YMCA全国有職婦人同盟などがあったそうです。当時、女子は大学を出ても就職せずに結婚してしまうことが少なくなかったなかで、日本女子大学校社会事業部の卒業生は就職率が高く、「かなり特別な存在」だったのではないかとのこと。淑子の教え子にも、内務省社会局に入って女性初の行政官となった谷野セツ、日本社会事業大学教授に就任した五味百合子、戦後厚生省に入省した植山つる、東京YWCA総幹事となった渡辺松子などがいました。

このように、日本女子大学校教授としての正田淑子は社会福祉事業の専門家を育てる教育活動に取り組んでいましたが、それと並行して女性の地位向上を求める著述活動や社会活動にも精力的に取り組んでいました。昭和2(1927)年、日本YWCA総幹事に就任。昭和3年に開催された第1回汎太平洋婦人会議に、読売新聞の支援で公募選出された婦人労働問題の専門家として参加し、「インドに劣る日本の婦人労働状況」について果敢に発言して、高い評価を勝ち取りました。昭和6(1931)年には「同じ仕事内容であれば男女同一賃金にすべきだ。そうすれば女性の能力が伸び、社会全体に資する。」と説くモーリス・ドップ『賃金制度の諸問題』を、翌年には女性参加による漸進的な社会改良を説くカリソン・ウェッブの『英国婦人消費者組合運動』を、それぞれ翻訳出版しています。またやはり昭和6年からは読売新聞人生相談「悩める婦人へ」の回答者もつとめました。落合様によりますと、淑子は自分の理想とする女性像についてラジオ講演や雑誌記事などで語っていますが、そのなかで女性は良い妻、賢い母であるだけでなく、国民として、また個人としても責任を負わねばならないと主張し、「良妻賢母」に代えて「良民賢婦」を提唱したそうです。


(汎太平洋婦人会議代表選出を伝える読売新聞の記事)

こうして多方面で活躍を続けていた正田淑子に戦争の影が忍び寄ります。日本が反共産主義・反社会主義を掲げて戦争に突入すると、社会事業と社会主義の混同により日本女子大学校社会事業学部の入学生が激減。昭和8(1933)年、社会事業学部の混乱の責任をとって淑子は同校教授を辞職します。昭和14年、教え子の1人であった東条英機夫人かつ子のあっせんで満洲にわたり、「満洲帝国道徳総会」の幹事となって新しい女性教育に取り組みますが、3年後の昭和17(1942)年、心臓発作に倒れ他界しました。

講演では以上に加えて、「正田淑子が求めたもの」の総括、淑子が執筆した絵本の紹介、そして淑子の墓所と慰霊碑に紹介などがありましたが、今回の報告では割愛させていただきます。

[動画(準備中)]

受講者の声

  • 発表の仕方が良かった。内容がわかりやすかった。(60代男性) ※同旨コメントを多数いただきました。
  • 娘2人が日本女子大を出ているのですが、佐野出身の正田淑子の関りが大であったことを初めて知りました。早速娘たちに知らせたいと思います。(80代女性)
  • 惣宗寺の慰霊碑、お墓参りの際に誰のものかよく知らずにお線香をあげておりました。女性教育に尽くされた方のものと知り、深く感謝するとともに、佐野学のすばらしさに感動しました。(70代女性)

※講座後のアンケートに寄せられたコメントの幾つかをご紹介しています。
※文意を損なわない範囲で、一部文言を変更しております。ご了承ください。

参考リンク

[準備中]

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