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中根東里を読むことの現代的意義:時代を超えてひびくことば

第4回 2018/7/28(土)午後1時

『中根東里を読むことの現代的意義:時代を超えてひびくことば』

講師:名古屋大学大学院人文学研究科教授 塩村 耕氏
場所:佐野日本大学短期大学大講義室

7月28日(土)、平成30年度佐野学市民講座「知られざる佐野ゆかりの偉人」の第4回講座が行われました。講師は、名古屋大学大学院人文学研究科教授(国文学)の塩村耕先生。講演タイトルは「中根東里を読むことの現代的意義:時代を超えてひびくことば」です。

今回遠く名古屋から塩村先生を講師としてお招きするにあたっては、佐野ロータリークラブ様(会長蛭川寿彦様)から特別のご支援を賜りました。記して感謝申し上げます。


(会場の様子)

塩村先生は平成12(2000)年から愛知県西尾市にある岩瀬文庫――明治時代に実業家岩瀬弥助が収集した古書コレクション――の全資料調査に携わっていらっしゃいますが、この岩瀬文庫所蔵資料のなかにあった『東里先生遺稿』(以下『東里遺稿』と略す)と『東里外集』を読んで衝撃を受け、中根東里という人物に関心を抱くようになったそうです。書物は人間が後代にメッセージを伝え、それによって個体としての「死」を乗り越える重要な手段と言えますが、東里の遺稿は書物というものが持つこの性質を読者に強く意識させる点で、尋常一様ではないとのことです(後述)。


(フロアから質問を受ける塩村先生)

中根東里(1694−1765)の生涯の大筋は、次のとおりです。(講演での塩村先生のお話は、時間の都合上ごく簡単な紹介のみでした。以下は当日配布された資料に依って補足しています。)伊豆下田の生まれ。幼いころに出家をし、禅僧となる。18歳の正徳元(1711)年頃、当時流行し始めた学風に従って(和式の漢文訓読ではなく)本格的に中国語(華音)を学ぶため、上方へ行っている。江戸に戻って後、(反朱子学の立場から)中国古典(四書五経)の読み直しを進めていた荻生徂徠に師事し、可愛がられた。この頃に浄土僧となる。正徳5(1715)年頃、『孟子』浩然気章を読んで還俗して本格的に儒者を目指すようになったが、やがて徂徠学を嫌うようになって、徂徠の下で著した文章をすべて焼き捨てた。次いで加賀国金沢出身の朱子学者、室鳩巣に師事し、師に従って(学問文芸が盛んだった)加賀に移り住む。しかし数年後には江戸(八丁堀)に帰り、その後なぜか鎌倉に移るが、さらにまた江戸に戻っている。江戸で塾を開き、書を講じたが、生活は極めて貧しかった。そうしたなかで『王陽明全集』と出会い、(理論よりも実践を重んずる)陽明学に転じた。享保20(1735)年頃、弟子である下野国植野村(現佐野市植野町付近)の医師金束信甫に招かれて、その地に移り住む。その後は、老母の死を看取るため相模国浦賀村(現横須賀市)に一時住んだ期間を除いて、前後20年余りにわたって佐野で民に学問を講じた。この間、延享3年(1746年)に、実弟淑徳の娘芳子(3歳)を引き取って養うようになる。その直後、幼い芳子に宛てて書いた『新瓦(しんが)』が、東里の残した唯一のまとまった著述である(後述)。宝暦3(1753)年頃、長姉の招きに応じて再び浦賀村に移り、明和2(1765)年2月7日にその地で死去した。享年72。

中根東里に関する最重要の伝記的資料は、門人である須藤柳圃(すとうりゅうほ)が記した「東里先生行状」ですが、塩村先生によれば、これには年代を特定できる事績がほとんどなく、東里の人生、特にその前半生は「謎だらけ」。一例として「東里先生行状」には、「幼くして父を喪ひ、母に事へて(つかえて)孝謹たり。母夫人、命じて郷の禅寺に入り僧と為らしむ」との記述があります。また室鳩巣の書簡集『浚新秘策』(別名『鳩巣小説』等)に若き日の東里のことを記した箇所がありますが、そこにも東里が「十二三より父におくれ、僧に」なった旨が記されています。これらのことから、東里自身が周囲の者に「少年の頃に父が死んだ。その後に出家した」と語っていたことが分かるのですが、しかし東里の父、中根権右衛門重勝の墓や過去帳は下田の本覚寺(日蓮宗)に現存し、他界したのは東里20歳の正徳3(1713)年であったことが確実なのだそうです。要するに、東里は何らかの事情で出家した事情の真相を隠そうとしていたわけです。

中根東里は本物の「隠者」であり、「隠逸孤高の人」で、世間的な栄達や名利から徹底的に背を向けた人物でした。生活は最低限の衣食を満たせばよしとし、あとはすべての時間を学問に捧げました。先に触れた室鳩巣『浚新秘策』には、朝起きてからずっと不動で読書する東里の姿がまるで「泥人形」のようであったとする記述があるそうです。その学問においても、東里は成果を世にアピールするということにまったく関心を有さず、それゆえ生前に刊行した著作は一つもありませんでした。思想面でも「過去の自分に対する執着」がなく、禅宗→黄檗宗・中国語学→浄土宗→荻生徂徠門・古文辞学→還俗→室鳩巣門・朱子学→陽明学、と思想的遍歴を繰り返しています。そのような東里の生涯や思想が完全に忘れ去られてしまうことなく、今日に伝わっているのは、塩村先生曰く、いわば「嚢中の錐」の如く、何十年か毎に彼の優れた思想に着目する人が現れ、光が当てられてきたからにほかなりません。東里の遺稿や書簡に関する出版史と研究史の流れをまとめると、以下のようになります。

?没後間もない明和年間(1764~72)に、門人の須藤柳圃が『東里遺稿』を編纂刊行した。ただし、ごく少部数のみを地方で自費出版したのであって、これによって東里が世間に広く知られたわけではない。?享和(1801~04)年間に数十本を再版。?天保(1830~44)年間にも再刻の動きがあったが、これは実現しなかった。?幕末、文久(1861~64)年間になって、佐野の医師、服部政世(まさよ)が数十年かけて集めた東里の雑文和歌と書簡を『東里外集』として刊行、併せて『東里遺稿』を重刊した。このように、江戸時代には佐野の地に東里の記憶と記録が広く残っていたと見られるが、しかし西洋諸国に倣った「文明開化」が謳われ、「富国強兵」が国是とされた明治時代以降は、東里のことはほとんど顧みられない時期が続いた。そうした流れを大きく変えたのが、?昭和49(1974)年、佐野高校の国語教師であった粂川信也による『東里遺稿解』刊行である。これは『東里遺稿』の本格的な注釈書で、大変な労作でもあり、東里研究の欠くべからざる参考書となっている。そして、?平成24(2012)年、磯田道史『無私の日本人』が3人の尊敬すべき江戸時代人の1人として中根東里を取り上げた。この本は広く読まれて、ようやく中根東里の凡その人物像が世間に知られるようになった。

なお、上述のとおり『東里遺稿』には明和年間に出版された初版本、享和年間に刷られた再版本、文久年間に刷られた重版(三版)本の3版がありますが、このうち初版本(そのうちでもごく初期に刷られたもの)の序文にはそれ以降の版には見られない誤植が複数あることが、判明しています。この誤植は、乞われて序を寄せた柴野栗山――当時は徳島藩に仕えており、後に松平定信に見出されて幕政(寛政の改革)に携わった著名な儒者――が、献本のお礼に須藤柳圃宛に送った手紙の中で指摘されており、書誌学的観点からすると「幻の初版本」を見分けるための鍵にもなるとのことです。


(『東里遺稿』の初版本の序)


(再版本の序。赤丸で囲った字は「芸」の旧字で
 再版本が正しく、初版本は誤植とのこと。)

『東里遺稿』には「新瓦」と題された東里の文章が納められています。先に述べたように、これは東里(当時53歳)が養育のために引き取った幼い姪の芳子(よしこ)に宛てて、将来読むようにと書いた「遺言文学」とでも称すべき作品で、「死」を超越するという書物の重要機能に特化した、他に類例を見ない本です。「瓦」はここでは少女のおもちゃ(糸巻)を意味し、東里はこれを芳子のために製本して綺麗な冊子にし、挿絵まで添えたと伝えられていますが、その冊子自体は見つかっていないそうです。なお、「新瓦」の文章は訓点無しの完全な漢文で、しかも中国の古典を下敷きにしないと意味が分からないところも多々あって、決して読み易い文章ではありません。講演では、この「新瓦」の冒頭数節を実際に読み上げて、東里の言葉のひびきを全員で味わいました(ただし読んだのは書き下し文です)。

「新瓦」には、芳子の父、つまり東里の実弟である淑徳がいかに深く彼女を慈しんでいたか、また妻に先立たれた淑徳が娘を養うのにどれほど苦労したかが懇々と説かれていますが、冒頭数節からもその雰囲気を十分に窺い知ることができます。ここで特に興味深いのは、貧しさゆえに乳母を雇うことさえできなかった淑徳が、空腹を訴えて泣く赤子を抱いて近所の家々を訪ね歩き、毎日頻繁に貰い乳をしていたというエピソードです。何度もそれを繰り返すうちにやがて疎まれて乳を貰えなくなったため、乳に代えて粥を与えたと書かれています。塩村先生によると、このような経験をした人(妻に先立たれた貧しい男)は当時決して珍しくでなかったはずですが、しかしそれを敢えて文章にしたのは東里のほかに井原西鶴だけでした。この西鶴との共通点、つまり貰い乳をする男の「哀しさ」を文章にする感性(人間観察力)に、国文学者(西鶴研究者)である塩村先生は最初に強く惹かれたそうです。

また講演では、東里の自筆書簡(「孫平」の名乗りを用いているものが多い)も複数紹介されました。東里の書簡は、老齢になって浦賀に移った後、佐野の門人たちに向けて「もう次の機会はないかもしれない」という切実な気持ちを込めて書かれたものが多く、それだけに東里の思想や関心事をよく表現しているものが少なくないとのこと。例えば宝暦9(1759)年1月5日付、須藤茂助(恐らく柳圃の弟)宛書簡の尚々書には、この年16歳となった芳子に良い縁談の話がまとまりつつある旨が記されています。塩村先生によれば、この縁談は無事に成立したらしく、芳子は浦賀の豪商(船問屋)である倉田家に嫁入りしました。

他方、学問についての東里の考え方をよく示すものとして紹介されたのは、宝暦11(1761)年10月3日付の大川十郎右衛門(須藤柳圃の次弟で、大川家の養子となった弼)宛書簡と宝暦13年4月27日付の須藤柳圃宛書簡(いずれも尚々書の部分)です。前者は十郎右衛門の勉学姿勢を褒めた上で、東里自身について、「自分も最早老齢でいつ死ぬか分からない身だが、学問だけは死ぬまで続ける覚悟でいたい」という趣旨を述べており、そこで「死して後已む(死而後已)」という論語の印象的な言葉が使われています。他方、後者は柳圃の学問姿勢を厳しく叱正する内容で、「もしかつてのように一途に陽明学を信じていないならば、それに代わるものを見つけて志を立て、必死で打ち込まねばならない」という趣旨を述べていますが、ここでも学問とは「斃れて而して後已む」ものでなければならない、という表現を東里は用いています。

最後に塩村先生は、「中根東里は日本の宝であり、彼の人生や言葉について知ることは、いつの時代にあっても大きな意義がある」とし、「佐野の地から繰り返し発信される中根東里再認識の波動は、池に投ぜられた一石のごとく、日本全国に良い影響を与えるでしょう」と述べられました。その上で、佐野の地に今日も人知れず残されている可能性がある東里の筆跡資料に関する情報提供を呼びかけて、講演を結ばれました。

講座終了後、佐野市長岡部正英様からご挨拶を頂戴しました。

[動画(準備中)]

受講者の声

  • とても感動しました。学問を続けることの大切さを知ることができ、さらに中根東里を勉強したいと思いました。(50代男性)
  • とてもおもしろい講演で、時間が短く感じました。中根東里についての講義をもう一度希望します。(60代女性)
  • 歴史を知ることの楽しさを教えていただいたと思います。(60代男性)
  • 私の実家は西尾市、それなのに岩瀬文庫は知りませんでした。このことだけでもびっくりしました。講師の先生楽しそうに熱弁。心から佐野学の素晴らしさを感じました。(70代女性 )

※講座後のアンケートに寄せられたコメントの幾つかをご紹介しています。
※文意を損なわない範囲で、一部文言を変更しております。ご了承ください。

参考リンク

[準備中]

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