佐野学講座

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佐野ゆかりの画家と絵画:小堀鞆音を中心に

第1回 2019/6/15(土)午後1時00分

『佐野ゆかりの画家と絵画:小堀鞆音を中心に』

講師:上野憲示 文星芸術大学(学校法人宇都宮学園)理事長
場所:佐野日本大学短期大学大講義室

2019年6月15日(土)、令和元年度佐野学市民講座「絵画で学ぶ佐野の歴史」の第1回講座が、佐野日本大学短期大学大講義室で行われました。講師は、美術評論家で、文星芸術大学(学校法人宇都宮学園)理事長の上野憲示先生。講演タイトルは「佐野ゆかりの画家と絵画:小堀鞆音を中心に」です。

【会場の様子】生憎の空模様でしたが、200名近い方がお越しくださいました.
【会場の様子】生憎の空模様でしたが、200名近い方がお越しくださいました。

元治元年(1864年)、佐野(安蘇郡)の小中村に生まれた小堀鞆音(須藤桂三郎)は、明治17年の内国絵画共進会(官営)展覧会に「南朝三傑」を出品して全国画壇へのデビューを果たすと、その後短期間のうちにどんどん力量を付け、明治後期には近代歴史画・歴史人物画の旗手とみなされるまでに至りました。上野先生のご講演は、このような小堀鞆音の画家としての立身出世の時代背景と、その成功条件の説明から始まりました。前者(時代背景)は明治政府主導の勧業博覧会開催、後者(成功条件)は「復古大和絵派」の先輩画家の活躍です。以下、それぞれ簡単に要約します。

江戸時代末期、幕府は条約交渉の必要などから欧米諸国に数次にわたって使節団を派遣しました。後に明治新政府を担うことになる若者たちはこれら使節団に参加し、ロンドン(1862年)やパリ(1867年)で開催された万国博覧会を見聞して、博覧会というイベントが有する文化的な意味を理解します。文明開化を急速に推し進める明治新政府は、こうして早くから博覧会開催に取り組むことになりました。実際、明治5年(1872年)の湯島聖堂博覧会を皮切りに、明治10年には上野寛永寺跡で第1回内国勧業博覧会、明治14年にはやはり上野で第2回内国勧業博覧会の開催と続き、その後も明治36年(1903年)の第5回内国勧業博覧会にいたるまで、数年おきに大規模な博覧会が開催されています。これら博覧会開催の主たる狙いは欧米諸国に見習った産業の振興でしたが、明治初年には文化や風俗の面でも急速に西洋化が進み、日本の伝統的な美術や工芸は軽んじられて、その担い手たちも苦しい生活を余儀なくされるようになっていました。ところが、勧業博覧会における美術工芸品の展示を通じて新たに実力のある若手の日本画の作家に注目が集まるようになり、それが日本伝統美術自体の再評価にもつながっていきます。上野先生によると、足利出身の田崎草雲などはまさにこのような脈絡に位置する人物の典型例であって、国内外の博覧会で作品が評価を受けたことで高い名声を獲得するに至った人物と言えるそうです。草雲は明治23年、当時の芸術家としては最高の栄誉であった帝室技芸員に選ばれています。そして、それより少しあとの時代になりますが、大正5年に帝室技芸員に任ぜられた小堀鞆音も、やはり博覧会や美術展覧会への出品によって全国的な名声を勝ち得た人物と位置づけられます。

講演中の上野憲示先生
(講演中の上野憲示先生)

次に鞆音の日本画家としての成功条件ですが、鞆音が画家としての本格的な修練の過程で深く学んだのは、「復古大和絵派」と呼ばれる先輩画家たちの業績でした。江戸時代は浮世絵の成立と全盛で知られますが、江戸末期には国学の思想的影響下に天皇親政復活を望む尊皇画家たちの間で、古い時代の大和絵を見直そうとする動きが生じていました。(今回の講演では、歌川国芳、月岡芳年、高久隆古、守住貫名、川辺御楯、河鍋暁斎などの作品が美麗なスライドで紹介されました。)大和絵の古典とは平安末期から鎌倉時代にかけて成立した「絵巻物」(源氏物語絵巻、伴大納言絵巻、鳥獣戯画など)の挿絵ですが、彼らは京都の寺社などに赴いて実際にそうした古代中世の絵巻物に接し、古典の丹念な模写(臨模)を繰り返すことによって、その芸の粋を学び取っていきます。小堀鞆音はこうした復古大和絵派の先輩画家、なかでも高久隆古や冷泉為恭などの作品を参照して、構図や描法を踏襲しているとのこと。明治17年、21歳にして上京後、鞆音が師事した川崎千虎も土佐派系の大和絵作家でした。その千虎の斡旋によって、鞆音自身も古画模写の仕事に多く取り組みます。ただし、千虎自身は歴史画作家というよりも有職故実の研究家であって、鞆音が彼から学んだのも主には故実の厳密な考証だったと解されるそうです。

小堀鞆音「養老之瀧」
小堀鞆音「養老之瀧」

冷泉為恭「養老勅使」
冷泉為恭「養老勅使」

講演中にスライドで紹介された鞆音(左)と冷泉為恭(右)の作品。脇役の人物や樹木の配置などは違っているが、滝と主役の人物の位置関係から前者が後者の構図を参照していることが窺われる。
前者は栃木県立美術館(編)『近代歴史画の父:小堀鞆音』、後者は中村渓男『日本美術261:冷泉為恭と復古大和絵』より転載。

以上のように、復古大和絵派に親しく学んだ小堀鞆音の歴史画は基本的に「旧派」の系譜に連なるものと捉えられますが、実際にも彼が博覧会や美術展覧会に出品し、名を広め始めた当初(明治20年代前半)に主な活躍の舞台としたのは、「旧派の牙城」と言うべき日本美術協会主催の展覧会でした。また、人脈の面から見ても、美術行政の重鎮佐野常民、臨時雇(アルバイト)先の上司山高信離(のぶつら)など、鞆音は「旧派」に与する大物とのつながりが濃厚でした。

しかし、小堀鞆音の画業の頂点を示すとされる明治30年の「武士(もののふ)」の完成には、岡倉天心率いる「新派」の画家たちの影響――あるいは「旧派」と「新派」の対抗関係がもたらした緊張感――が必要だったと考えられます。上野先生は今回のご講演でこの点を特に強調され、「新派」の画家の代表作をスライドで紹介しながら、アーネスト・フェノロサと岡倉天心(覚三)が指導した日本画革新運動の概要について、以下のように説明されました。「新派」の代表的な作家には、フェノロサが直々に見出した狩野芳崖や橋本雅邦、東京美術学校初代校長岡倉天心門下の横山大観、下村観山、菱田春草らがいるが、彼らが取り組んだのは博覧会や展覧会の会場でも見栄えのする(つまり西洋画に負けない強いインパクトを有する)日本画を作り出すことだった。フェノロサや岡倉天心の指導のもと、彼らは空間に奥行きを出す様々な技法や、輪郭の線描を廃して面の色彩の濃淡のみで形態を表現する技法(いわゆる「朦朧体」)――これについては鞆音は頑として受け入れなかったが――など、西洋画を参考にしつつ様々な新しい表現法を日本画に取り入れた。こうして日本画の革新が試みられるなかで、明治31年には横山大観の有名な「屈原」発表を契機として、高山樗牛と坪内逍遥の間で有名な「歴史画論争」が発生している。

上野先生によると、小堀鞆音は画家としての出自や人脈の点からは「旧派」に属しますが、一面では「進取の気性」にも富んでいたそうで、明治25年(1892年)、岡倉天心、橋本雅邦らによる日本青年絵画協会の設立(いわば「新派」の旗揚げ式)に参加しています。また明治29年、日本青年絵画協会が日本絵画協会に改組されると、同会主催の第1回展覧会に「経正詣竹生島図」を出展して、高い評価(銀牌)を得ています。さらに翌明治30年(1897年)、師千虎と共に「新派」の牙城である東京美術学校の教員(助教授)に迎えられると、同年中に小堀鞆音の歴史人物画の最高傑作とされる「武士」を完成させ、日本絵画協会主催の第2回展覧会に出品して、近代歴史人物画の旗手と目されるようになっていきました。ただし、この「武士」の成立事情はさらに複雑で、「旧派」に学んだ鞆音が「新派」の影響を取り入れた、という単純な話ではありません。すなわち、そもそも小堀鞆音の画業の原点には際物職人でもあった父須藤晏斎や南画家であった長兄須藤桂雲が授けた絵の手ほどきがあったわけですが、「武士」の特徴的な「ギョロリとした眼」の表現には、鞆音が幼い頃から親しんでいた際物武者絵の影響があったと考えられています。上野先生によると、しかもこの点については美校校長の岡倉天心から再三修正の助言が入っていたものを鞆音が頑として聞き入れず、最後まで自分を貫いたそうです。

講演中にスライドで紹介された、鞆音の傑作「武士」の顔部分
講演中にスライドで紹介された、鞆音の傑作「武士」の顔部分。
出典元は佐野市郷土博物館・佐野市立吉澤記念美術館(編)『小堀鞆音没後80年展』など。

こうして、鞆音は「新派」の俊英画家たちと切磋琢磨しつつ、明治30年代前半までは新旧両派の展覧会に精力的に作品を出品していきますが、この間もすべてが順風満帆に進んでいたというわけではありませんでした。明治30年に東京美術学校助教授に就任したのも束の間、翌明治31年には美術学校騒動に巻き込まれ、岡倉天心が校長辞任を余儀なくされたのに抗議する形で、他の多くの教官と袂を連ねて美校を去ることになりました。その後、天心、雅邦らを中心とする日本美術院開設に正会員の1人として参加し、谷中の美術院宿舎に移って、一時は横山大観など天心の愛弟子たちと寄宿を共にしています。つまり、「新派」の中心メンバーと同等の扱いを受けていたわけですが、しかしどこか彼らに馴染めずにいた鞆音は、次第に他のメンバーからは距離を置くようになっていったようです。また作品について言うと、「武士」では天心の干渉を退けた鞆音でしたが、翌年の展覧会出品作「常世」では逆に天心の助言をすべて取り入れました。その結果、「常世」はむしろ平凡な作品になってしまったとも言われています。

「旧派の息のかかった鞆音は、学校にあっても外様的な心理的ギヤップを埋めることができず、天心の遠慮のない干渉に対しては、白らの見識で何としても受けつけない態度をとったこともあった。『武士』の人を圧する迫力は、そのギョロリとした眼の表現主義的な筆法を固持した鞆音の意地の勝利である。他方、『常世』は天心の意見をとり入れて手直ししたものであるが、結果的には、はじめの構想の方がより優れていたと回想する弟子も少なくない。」(講演スライドから引用)

明治35年には日本美術院が文部省から厳島神社所蔵の国宝、小桜威大鎧と紺糸威大鎧の修理復元の仕事を委託され、鞆音はその監督者に就任します。その頃から古武具収集に情熱が傾いたためか、展覧会への出品は徐々に減っていきました。晩年になると鞆音の画風はすっかり安定し、円熟味と品格が増し、また有職故実の精密な検証を備えて、皇室や宮内庁から依頼を受けた作品を数多く手がけるようになります。尊皇家を自認する鞆音は、これらの仕事には極めて熱心に取り組んだと言われています。ただし上野先生は、老成後の鞆音の作品には、文展や院展に出品された幾つかの大作も含めて、かつての「武士」に見られたような緊張感やダイナミズムは見出すことができない、と指摘していらっしゃいました。鞆音の作品については壮年期と老成後のものを対比しつつ前者よりも後者を高く評価する向きもあり、識者の間でも意見が分かれるところのようです。

ご講演のなかで上野先生は、小堀鞆音の人物像にも触れられました。第一に、画家として制作に取り組む姿勢については「真摯で、こつこつと努力を怠らない」とし、「『絵師草紙』ばりの質実剛健さ」だと高く評価します。鞆音は「下図に裸の人物をスケッチし、その上に衣裳や道具類を重ねていく」というほどに堅実な方法を採用していたそうです。第二に、人格的な特徴としては寡黙さを挙げ、岡倉天心の干渉への反発が鞆音をますます言葉少なにしたかもしれない、と指摘されました。第三に(『書画骨董雑誌』『絵画叢誌』等に残された鞆音の数少ない文章から窺い知ることのできる)日本画家としての思想については、①「写生」の流行に抗して「模写」や「臨模」の重要性を説いたこと、②「色彩で誤魔化す」傾向を批判して大和絵伝来の線描の重要性を説いたこと、③「使い残した岩絵具は膠抜きして何度も使う心構え」を力説して絵具を粗末に扱うことを厳しく戒めたこと、の3点を紹介されました。そして最後に、鞆音が最後まで郷里佐野で応援してくれる人々とのつながりを大切にしたこと、上京して立身出世を遂げた後も佐野の人たちの求めに応じて心を込めて作品を描いたことなどを紹介されました。

上野先生はこうしたお話と共に、スライドで数々の美しい絵を紹介してくださいました。近代日本画の歴史の流れを形作る「旧派」と「新派」の主要な作品を確認し、有意義な比較の視点を備えた上で、小堀鞆音の多数の作品を時代背景や制作環境等を意識しつつ鑑賞することが出来たのは、少なくとも報告者にとっては極めて貴重な体験でした。後述するアンケート結果から判断するに、参加者の多くの方も同じような感想を抱かれたのではないかと思っています。

講演中にスライドで紹介された、鞆音の傑作「武士」
鞆音の傑作「武士」

講演中にスライドで紹介された、最後の完成作品となった「廃藩置県」
最後の完成作品となった「廃藩置県」

講演中にスライドで紹介された、鞆音の傑作「武士」と最後の完成作品となった「廃藩置県」。いずれも全体図。後者は明治天皇の業績を称えるために築かれた聖徳記念絵画館の80枚の壁画の一つとして制作されたもの。前者は佐野市郷土博物館・佐野市立吉澤記念美術館(編)『小堀鞆音没後80年展』、後者は明治神宮崇敬会ウェブサイト(http://sukeikai.meijijingu.or.jp/)より転載。

※絵画の転載に際しては、著作権に配慮するため写真の画質を落としています。

受講者の声

  • 佐野大画家・小堀鞆音に感銘を受けました。美術館にいるような感じで鑑賞させて頂きました。「武士」の迫力に驚きました。(70代女性)
  • 小堀鞆音の芸術の特徴や位置づけがよく分かり、大変有意義でした。(60代男性)
  • 小堀鞆音自身の芸術や作品ではなく、彼を中心とする日本近代美術史全体が講演のテーマであったかと思います。それはそれで面白かったのですが、鞆音の個々の作品について、もう少し詳しい説明をいただけたらより楽しかったと思います。(80代女性)
  • 小堀鞆音が駆け抜けた時代について、絵画を通していろいろと学び取ることができました。(40代男性)

※講座後のアンケートに寄せられたコメントの幾つかをご紹介しています。
※文意を損なわない範囲で、一部文言を変更しております。ご了承ください。

ご参加くださった皆様、アンケートにご協力くださった皆様、誠にありがとうございました。
佐野日本大学短期大学 佐野学担当 川副令

参考リンク

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