佐野学講座

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【佐野掛地】の魅力

第2回 2019/6/29(土)午後1時00分

『【佐野掛地】の魅力』

講師:藤田好三 郷土資料収集・研究家(元宇都宮市職員)
場所:佐野日本大学短期大学大講義室

2019年6月29日(土)、令和元年度佐野学市民講座「絵画で学ぶ佐野の歴史」の第2回講座が、佐野日本大学短期大学大講義室で行われました。講師は、郷土資料収集・研究家で、元宇都宮市職員の藤田好三(こうぞう)さん。講演タイトルは「『佐野掛地』の魅力」です。

【会場の様子】 実物の「掛地」と絵図版を使っての講演で、いつもと違い照明を落とさず、カーテンも開けていたので、教室の雰囲気がとても明るく感じました。
【会場の様子】実物の「掛地」と絵図版を使っての講演で、いつもと違い照明を落とさず、カーテンも開けていたので、教室の雰囲気がとても明るく感じました。

かつて佐野は、羽子板、ひな人形、鯉幟など、一定の時季にのみ飾られる「際物(きわもの)」の一大産地として知られていました。藤田さんによると、この地で作られてきた様々な際物のなかでも、特に子どもが生まれた家に親類縁者から贈られる初正月の祝い掛軸は、明治中期に佐野地方の際物職人(幟絵師)が創作して初めて世に送り出し、100年以上にわたって北関東を中心に庶民の間で広く人気を博したもので、言ってみれば「佐野生まれ、佐野育ち」の際物です。今日ではそうした風習は廃れてしまい、若い世代にはまったく知られなくなっていますが、往時には子どもの生まれた家に親類縁者から多数の掛軸が贈られ、受け取った家では正月に部屋一面にそれらを飾って、子ども誕生を喜ぶと同時に家の交際の広さを誇ったりもしたようです。こうした初正月や初節句の祝い掛軸は古くは「掛地(カケジ)」と呼ばれたそうですが、ご年配の方のなかには「ハマユミ」や「ハマヤ」という呼び名で記憶している方もいらっしゃるのではないでしょうか。

ところで、初正月や初節句のお祝いに贈られた掛地は、子どもの成長過程で何年も繰り返し飾られる羽子板や武者幟などと異なり、一度飾られた後は捨てられる予定のもので、いわば「使い捨て」の宿命にあるものでした。当然、絵画として高く評価されることはなく、表具などの作りも簡素で、値段も安かったようです。もし何らかの「美」を体現するものして広く永く鑑賞されることが美術品の価値の本質だとすると、佐野掛地は「美術工芸品」に類するものなかで最も「美術性」が小さい部類に入れられることになるでしょう。実際、藤田さん自身も収集をはじめた当初は佐野掛地の絵柄を幼稚なもの、マンガチックなものと捉え、特に魅力があるとは感じていなかったそうです。それが、100本、200本と手元に集まる掛地を広げて見ているうちに、無数の名もない絵師たちが創り出した絵柄のバリエーションの豊富さ、子どもの健やかな成長と大成を願う意味が込められた絵柄が同時に娯楽の少ない時代に談論の対象ともなる面白味のある物語性を含んでいること、さらにはそうした絵に込められた想いや願いが贈り手や作り手から受け手や見る者へと伝わることの情緒深さなどに気づくようになり、佐野掛地の一見素朴な絵柄に大きな魅力を感じるようになったそうです。

藤田さんのご講演は前半と後半に分かれます。前半は、佐野地方における際物づくりの歴史とその中での「掛地」の位置づけ、また掛地の製作手法などについての説明です。後半は佐野掛地の絵柄の多様性や変遷についての説明で、これは藤田さんが平成29年に出版された『佐野掛地祝い絵図鑑:下野とちぎの民画』の抜粋図版に基づいて行われました。なお、講演中には会場前方に実物の佐野掛地が数本かけられており、藤田さんは適宜そちらも参照しながらお話をなさいましたが、本報告ではその部分は割愛いたします。

藤田好三さんの著書『佐野掛地祝い絵図鑑:下野とちぎの民画』(しもつけの心出版)の表紙

藤田好三さんの著書『佐野掛地祝い絵図鑑:下野とちぎの民画』(しもつけの心出版)の表紙。
日本グラフィックサービス工業会が主催し、NPO法人日本自費出版ネットワークが主管する第21回日本自費出版文化賞(朝日新聞社等後援)で、地域文化部門賞に選ばれた。同賞の選考委員には色川大吉氏や成田龍一氏などの著名な歴史家も名を連ねており、藤田さんの著書には史学的な観点からも相当程度の評価が与えられたと推察される。

佐野に際物づくりが定着し、発展していったのは、幕末から明治の初めにかけてのことと考えられています。『佐野市史(民俗編)』と『田沼町史(自然・民俗編)』の記述に共通するのは、(前回佐野学市民講座のテーマであった)小堀鞆音の父、須藤晏斎(1821~1897)と彼に師事した画工職工たちが、端午の節句に飾る武者幟の絵柄など、初期の際物絵をつくっていったとの指摘です。

さて、藤田さんによると、明治初期に佐野地方でつくられた際物類のなかには、まだ掛地は見当たりません。例えば、明治22年に安蘇郡富岡村が作成した「地誌編輯材料取調書」には明治8年から明治10年にかけて同村でつくられた際物の種類と生産数に関する報告があり、雛(1000体~1200体)、幟(30本~60本)、羽子板(2000枚~2500枚)、達磨(2000体~2500枚)などと並んで「破魔弓」の生産数が明治8年2000枚、明治9年2200枚、明治10年2500枚と報告されています。しかし、この「破魔弓」は細長い板に弓を飾りつけたものを指し、掛地のことではないと解されます。(なお、今回の講演のなかでは触れられませんでしたが、上掲の藤田さんの著書によると、明治40年出版の『栃木県営業便覧』には佐野地方の際物商(佐野町6軒、犬伏町3軒、堀米町1軒)の製造商品として、雛、幟、羽子板、押絵と並んで、「濱弓」と「掛地」が別々の商品として記載されているようです。)他方、大正2年に設立され、佐野際物産業振興を牽引した「佐野際物合名会社」の定款の第2条(会社の目的)には、「本社ハ掛地、雛、幟等ノ際物ノ製造及ビ販売スルヲ以テ目的トス」とあり、この時点では既に「掛地」が筆頭商品とされていたことが分かります。こうしたことから、佐野地方で際物掛地の生産がはじまったのは明治20年代から30年代にかけてのことであり、それが「ハマユミ」や「ハマヤ」と呼ばれるようになったのはずっと後の時代のこと、恐らくは昭和期以降に広まった俗称ないし愛称と考えられるそうです。

次に掛地の中絵(表具に貼られた絵の部分で「本紙」ともいう)の製作方法ですが、佐野で掛地づくりが始まったばかりの頃には絵師や修練した画工がすべて肉筆で絵を描いたようですが、初正月や初節句に掛地を贈答する風習が広まり、需要が高まると、中心となる人物や重要な動物などの輪郭を用紙に薄い墨色で印刷(これには当初は木版、やがて石版、さらに後代になるとオフセット印刷が用いられた)し、それをもとに肉筆で線描や彩色を施して、さらに遠景近景に山、樹木、波涛、岩などを描き加えていくという手法が採用されました。こうした手法で、まるで肉筆画であるかのような、一枚一枚に個性のある中絵が大量に作られた点にこそ、佐野掛地の本領があったと藤田さんは指摘しています。なお、掛地づくりに携わる人々は、この手法で作られた中絵を「書絵」と呼び、また中間段階の薄墨色で印刷された下絵を「ネズ版」と呼んだそうです。これらは、いわば佐野掛地の業界用語ですが、掛地づくり衰退と共に今日ではほとんど知る人もいなくなっているとのことです。

こうした肉筆画や書絵のほかに、中絵の全体が印刷されたものである「刷り物」の掛地もありましたが、これには極めて初期に佐野近隣で作られた木版多色刷り(錦絵)のものと、平板(石版→オフセット)での大量印刷が可能となった時代に佐野の際物業者が東京の大手印刷会社に発注してつくったもの(印刷された中絵に佐野で表装を施して掛地として商品化した)と、大きく2種類に分かれるそうです。ただし、東京での印刷が主流となった時代にも、足利など佐野に比較的近いところで印刷されたものもあったのではないか、と藤田さんは指摘しています。

佐野掛地の祝い絵には初正月用のものと初節句用のものがあり、それぞれに男児向けと女児向けがあります。男児向け初正月用掛地の代表的な絵柄は、下のようなものになります。(ア)と(イ)は中絵(なかえ)の下の方に弓矢の絵が描かれています。

(ア)太閤秀吉と清正
(ア)太閤秀吉と清正

(イ)牛若丸と弁慶・「佐野会社」印
(イ)牛若丸と弁慶・「佐野会社」印

(ウ)二宮金次郎・「耕雲」銘
(ウ)二宮金次郎・「耕雲」銘

これは、本来男児の初正月祝いに贈られるべき破魔弓の代替の品であることを示していますが、藤田さんによると、このような弓矢の印は初正月用掛地が作られはじめた初期の品にのみ見られるもので、大正中期以降に作られた掛地には見いだされないそうです。また、(イ)の左下には「佐野」「会社」の2つの印が押されていますが、これは大正2年に設立された佐野際物合名会社が製作した品であることを示しており、弓矢の印の入った初正月用掛地が佐野の地で作られていたことの確かな証拠でもあります。他方、(ウ)の絵には「耕雲」の銘が入っていますが、これは佐野際物合名会社の設立に携わった3商店のうち、京屋(京谷)を除く橋本・田村の両商店が合同で製作したことを示すものとのこと。往時の老舗際物商店は多くの画工や職工を雇っていたようで、耕雲などの銘も特定の個人のものではないと解されるそうです。また、(ア)(イ)のような弓矢の印が入った掛地が姿を消した後、長らく絵柄のみの掛地が作られた時期が続き、(ウ)の絵のような銘入りの掛地中絵は昭和期に入ってから多数作られるようになったそうです。

次に女児向けの初正月用掛地です。

【参考】佐野の描き絵羽子板
【参考】佐野の描き絵羽子板

(エ)神功皇后
(エ)神功皇后

(オ)姉妹・「佐野会社」印
(オ)姉妹・「佐野会社」印

(エ)は中絵の用紙いっぱいに羽子板の絵が描いてありますが、これは男児向けの弓矢の印と同様に、本来羽子板の代わりの品であることを示しており、初期の掛地にのみ見られる絵柄だそうです。時代が下るにつれて徐々に羽子板は小さくなり、やがて完全に姿を消していきます。(オ)の姉妹は、この図では分かりづらいかもしれません(講演当日に配布された抜粋図版でははっきり見えます)が、妹が右手に羽子板を持っており、初期のものの名残を感じさせます。なお、(エ)の羽子板に描かれた絵は、参考に掲げた佐野の描き絵羽子板の絵柄とほとんど完全に一致します。

このほか、講演中には刷り物の掛地の代表的な絵柄、押絵人形付きの掛地、戦時期に作られたものなど、多種多様な絵柄が佐野掛地の歴史とともに紹介されました。また、初正月用のものだけでなく、初節句(端午の節句、雛の節句)用のものも紹介されました。残念ながら、それらすべてをこの報告書に再現することはできません。ただ藤田さんが佐野掛地の本領であるとし、またその魅力や面白さの一端でもあると指摘した、同じ「ネズ版」を使用した「書絵」のバリエーションの豊かさ――藤田さん曰く「同工異曲の巧み」――を窺い知ることのできる図のみ、下に掲載しておきたいと思います。

(左)新田義貞
(左)新田義貞

(右)新田義貞
(右)新田義貞

左右とも、人物や大太刀は同じ図柄を使っているが、鎧兜の彩色、海面の描き方などが違うことで、まったく違う絵であるかのように見える。

(左)桜背に・「坪井コレクション」より
(左)桜背に「坪井コレクション」より

(右)富士を背に・「坪井コレクション」より
(右)富士を背に

こちらも人物の絵柄は左右完全に一致するが、着物の彩色、何より背景が大きく異なることで、一見したところまったく違う絵であるかのように見える。

講演を終えるにあたって藤田さんは、佐野掛地はこの地方の先人たちが100年以上にわたって愛おしみ、歴史を紡いできた貴重な文化財であると指摘されました。そして、佐野掛地を歴史の闇に葬り去ってしまうことのないよう、佐野市民が力を合わせてその魅力を伝えていって欲しいとお願いされました。藤田さんのお話を聞きながら報告者の脳裏に、「市民の、市民による、市民のための」というフレーズが自然と浮かんできました。

受講者の声

  • 掛地についての講演ははじめて聞きました。驚きも、喜びもありました。羽子板の制作を子供の頃よく見ていたので、感慨深く感じました。(80代女性)
  • こうした職人の作品は美術的評価が低く、後世に残らないものなのに、これだけ収集して、系統立てて考察されたことは素晴らしいと思います。これこそ佐野学の真骨頂だと思いました。(60代女性)
  • 佐野市に「佐野掛地」ミュージアムを建設してはどうでしょうか(廃校になる学校を利用してはどうか)。観光立市の一環として全世界にアピールしてもらいたい。(70代男性)
  • 明治期からの際物業の一状況に関する話としては面白かったです。ただ、掛地そのものについては美術的な作品というより近代の製品(商品)という意味合いが強いと感じております。所謂「錦絵」的な物の地方における展開という印象です。(40代男性)

※講座後のアンケートに寄せられたコメントの幾つかをご紹介しています。
※文意を損なわない範囲で、一部文言を変更しております。ご了承ください。

ご参加くださった皆様、アンケートにご協力くださった皆様、誠にありがとうございました。
佐野日本大学短期大学 佐野学担当 川副令

【お断り】本報告掲載の図はすべて藤田さんの著書及びその抜粋図版から画質を落として転載したものです。

参考リンク

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