佐野学講座

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田中正造の多面性:絵と書と狂歌

第3回 2019/7/6(土)午後1時00分

『田中正造の多面性:絵と書と狂歌』

講師:山口明良氏 佐野市郷土博物館館長
場所:佐野日本大学短期大学大講義室

2019年7月6日(土)、令和元年度佐野学市民講座「絵画で学ぶ佐野の歴史」の第3回講座が、佐野日本大学短期大学大講義室で行われました。講師は、佐野市郷土博物館館長の山口明良(あきよし)様。講演タイトルは「田中正造の多面性:絵と書と狂歌」です。

【会場の様子】山口様は演台を使わず、ときには演壇からも降りて、お話をなさいました。
【会場の様子】山口様は演台を使わず、ときには演壇からも降りて、お話をなさいました。

「佐野ゆかりの偉人」と言ったとき、真っ先に名前が挙がるのは、やはり田中正造でしょう。佐野市内の特に年配の方のなかには、親しみと尊敬を込めて「正造翁」と呼ぶ人も少なくありませんが、本報告書では敬称は省略いたします。

田中正造が日本最初の公害問題と言われる足尾銅山鉱毒問題の調査と解決に尽力したこと、この問題に正面から向き合おうとしない政府の態度に業を煮やして明治天皇への直訴決行に及んだことは、今日では小学校の社会科教科書(5・6年生歴史教材)にも載っています。また、高等学校用の日本史の教科書では、足尾鉱毒問題の展開と田中正造の取り組みが、より詳しく論じられています。例えば、山川出版『詳説日本史B』のコラム「田中正造と足尾鉱毒事件」には、次のような記述があります。

「(…)栃木県選出の衆議院議員田中創造は、議会で政府に銅山の操業停止をせまった。また木下尚江らの知識人とともに世論の喚起につとめた。政府も鉱毒調査会を設けて鉱毒予防工事を銅山に命じたが、操業は停止させなかった。そこで1901(明治34)年に田中は議員を辞職し、天皇に直訴を試みたが果たせなかった。政府は1907(明治40)年、渡良瀬川と利根川の合流点に近い栃木県下の谷中村を廃村として住民を集団移転させ、遊水池にした。しかし、田中はこれを不服とする住民とともに谷中村に残り、1913(大正2)年に亡くなるまで、そこに住んで政府に抗議し続けた。」

山口様によれば、この記述の後半部分、つまり(ア)政府が鉱毒問題の「解決策」として(銅山操業停止ではなく)遊水地建設を計画し、そのために谷中村を廃村として住民を集団移転させたこと、(イ)田中正造が鉱毒被害だけでなく、遊水地建設に伴う谷中村廃村問題にも生涯をかけて抗議し続けたこと、はかつての教科書には記載されていなかった部分であって、人権擁護や自然環境保護への関心が高まるなかで、先駆者としての田中正造に対する関心も同時に高まっていることを示唆しています。

ところで、田中正造と聞いて「足尾鉱毒問題」や「直訴」というキーワードは浮かんでも、彼の人物像については具体的なイメージが浮かばないという方は、案外少なくないかもしれません。あるいは、正造について何となく恐ろし気な人物というイメージを抱いている方もいらっしゃるかもしれません。実際、幼少の頃に晩年の正造をふと見かけたある女性作家は、その一瞬に受けた印象を後に振り返って、「ぎょろっとした目のこわいおじいさんであった」と表現しています。

「その時、門に入って来る人を私は見た一瞬ぎょっとした。その人は蓑を着て菅笠をかぶっていた。(…)たくましい老顔のあごに一束のひげが白く払子のようにさがって、ぎょろっとした目のこわいおじいさんであった。私があわてて逃げ出そうとすると、いきなりおかっぱの頭をなでられた。『コワガランデイイ』という態度らしかったが、節くれだった太い指の手でなでるというより、つかまれた感触だった。」

吉屋信子『私の見た人』「田中正造」より

しかし山口様によると、もし田中正造についてよく知らない人達の間にこのような漠然とした負のイメージが広まっているとすれば、それは世に出回っている正造の写真に起因するところが少なくない。下に掲載した2枚の写真を比較すると、左の正造は温和な表情をしていて、親しみやすい印象を与えるのに対し、右は片目だけギョロリとして恐ろしげな印象を与えますが、今日教科書などで使用されている正造の写真は、大部分が後者なのだそうです。(確認してみたところ、佐野市の小学3・4年生向け郷土教育資料『わたしたちの佐野市』の平成29年度版でも右の写真が使われていました。)

温和な表情の田中正造
温和な表情の田中正造

おっかない表情の田中正造
おっかない表情の田中正造

しょうぞうくん
しょうぞうくん

他方、正造自身が 好んだのは前者(温和な表情の写真)で、わざわざ焼き増しをして知人に配っていたとのこと。田中正造翁没後百年顕彰事業推進室が作成したキャラクター「しょうぞう(SHOZO)くん」は、これまで田中正造について抱かれてきた「かたい・くらい・こわい」というイメージを少しでも和らげることを狙いとしたものでしたが、今回の講演で山口様が田中正造に様々な角度から光を当てられたのも、同じような考えに基づくものであった、と報告者は理解しております。なお、田中正造と深い親睦を有し、彼の臨終にも立ち会った木下尚江は、〈鉱毒問題について語るときの正造〉と〈それ以外のときの正造〉を対比して、「全く別世界、別人物の感じがした」と証言しています。

「鉱毒の話になると、翁の神経が(…)殆ど過敏の極にまで行ってしまうので、誠に対応に骨が折れた。然れども、一たび鉱毒問題を離れると、あたかも暗い谷底を出て青天の高原に立つやうで、全く別世界、別人物の感じがした。広い心。温かい情愛…」

木下尚江『田中正造翁』より

田中正造には頑なで気難しい一面もあったかもしれませんが、同時に和かで、楽しげな側面も有していた――田中正造は多面的な人物だった――と考えられるのです。

山口様のご講演は、大きく4つの部分に分かれます。第1は「そうだったのか!!田中正造」と題して、田中正造の生涯をダイジェストで紹介する内容です。第2は「田中正造の絵と書と狂歌」とそれらにまつわる様々なエピソードの紹介。第3は田中正造が最期のときに所持していた3つの小石とそれらにまつわるエピソードの紹介。そして第4として、「田中正造と万葉集」と題して、田中正造ゆかりの地の1つとして、前の天皇皇后両陛下(現在の上皇上皇后両陛下)が佐野市郷土博物館をご訪問なさったときの出来事を紹介がありました。以下、これらのお話の内容をそれぞれ簡単に報告いたします。

【そうだったのか!!田中正造

下に掲載した年表は、田中正造の生涯をごく大雑把にまとめたもので、今回講演の参考資料に微修正を加えたものです。生まれは天保12年11月3日。幼名は兼三郎。(「正造」の名乗りが用いられるようになったのは、明治2年頃のことと考えられています。)生家は祖父の代から名主をつとめる家柄で、正造も安蘇郡割元に昇進した父富蔵の後任として若干17歳(19歳説も有力)で名主になっています。文久3年、23歳のとき、隣村に住む8歳年下の娘(大沢カツ)と結婚。この結婚については「正造がカツを待ち伏せし、草刈りのカゴに押し入れて背負って連れ帰ってきた」「カツの家族が娘を取り戻しにきたが村ぐるみで隠し通した」といったエピソードが地元に伝わっており、伝記などにも紹介されていますが、山口様によれば、これは両人の結婚が当時としては珍しい恋愛婚であり、カツの生家の反対を押し切って行われたものであったため、いわば話に尾ひれがついて面白可笑しいエピソードが成立したと解されるとのこと。また、田中正造の日記(明治44年5月)には、あるとき(衆議院議員時代)正造がカツに手紙を出そうとして、しばらく妻の名前を思い出すことができなかった、その事実をカツに正直に伝えたところ機嫌を悪くされてしまって難儀した、というエピソードが(後日談として)記されています。正造は、日本人が伝統的に夫婦を互いの名で呼ばず、「コレコレ」とか「あんたー」などで済ませてきたことを良くない習わしであるとし、西洋の文明を見習って日本でも毎日夫婦が互いの名を呼び合うべきだ、そうすれば「イカに忘れ上手の正造たりとも(…)女房の名を忘れたくも忘れぬべし」と書いています。山口様はこの箇所を紹介して、「田中正造を尊敬する人のなかには、年配の方でもこれ(夫婦が互いに名前で呼び合う)を実践している人が少なくないようですよ」とおっしゃっていました。江戸時代に恋愛結婚を断行したことと言い、正造の進歩的な気質を示すと同時に、どこか少し間が抜けた感じもする、人間田中正造の魅力と実像をよく示すエピソードであるように思います。

年代 年齢 年齢
天保12年 1841年 1歳 11月3日下野国安蘇郡の小中村に生まれる
安政 4年 1857年 17歳 父親の後任として小中村六角家知行所の名主となる
文久 3年 1863年 23歳 大沢カツ(15)と結婚
明治 3年 1870年 30歳 江刺県(秋田・岩手の一部)で役人になる
明治13年 1880年 40歳 栃木県議会議員当選
明治23年 1890年 50歳 第1回帝国議会衆議院総選挙で栃木3区に出馬し、当選
翌年 51歳 第2回帝国議会で足尾鉱毒問題に関する質問書を提出
明治34年 1901年 61歳 議員辞職、12月天皇への直訴を決行
明治37年 1904年 64歳 谷中村に住む
大正 2年 1913年 73歳 9月4日庭田家にて死去

田中正造の名前が歴史に深く刻まれたのは、何と言っても明治天皇への直訴決行によるものと考えられますが、研究者の間では、正造が天皇について如何なる考えを有していたか、すなわち天皇を敬い、天皇に期待をかけていたからこそ直訴に踏み切ったのか、天皇への期待や敬意などはなく直訴は単なる政治的宣伝の手段に過ぎなかったのか、が議論されてきました(研究史は小松裕『田中正造の近代』をご参照ください)。山口様は講演のなかでこの論点に触れて、正造は天皇に対する敬意を抱いていたとする立場(今日の通説)を補強する2つの資料を紹介されました。1つは、明治天皇が即位直後に発布した五箇条御誓文を正造が筆写したもの、もう1つは、明治天皇の御大葬の日に正造が周囲のごく親しい人に対して語った言葉。後者は晩年の正造に付き従った島田宗三が記録したもので、正造は御大葬の日に突然南(=東京)の方角を向き、無言で下を向いたまま、10分、20分とじっと動かずにいた後、極めて厳粛な態度で次のように語ったとされます。

「私も元衆議院議員ですから、御大葬に御参列できるのですが、いや御参列申し上げなければ誠におそれ多いのですが、なんとも着物がありませんから…」

(『田中正造翁余録(下)』65頁)

『余禄』には続けて、「私(島田宗三)は熱いものが胸にこみあげ、他の二人の眼にも涙が光っていた」と記されています。また、ちょうど御大葬が始まる時刻に正造が再び南面して、一時間余りの黙とうを捧げたことも記されています。ところが、田中正造自身の日記にはこの日の出来事はごく簡潔に記されているのみで、そこからは天皇に対する正造の感情を読み取ることは出来ません。この件も含めて、山口様は島田宗三が正造の行動や事績を後世に伝える役目を果たしたことの重要性を繰り返し強調されました。先述した「しょうぞう(SHOZO)くん」のデザインを検討するに際しても、山口様は正造の脇に少年島田宗三を配置する図柄を依頼したのだそうです。

正造が筆写した五箇条御誓文(個人蔵)
正造が筆写した五箇条御誓文 (個人蔵)

島田宗三を従える「しょうぞうくん」
島田宗三を従える「しょうぞうくん」

【田中正造の絵と書と狂歌】

(1)絵 田中正造は幼少期に吉澤松堂――吉澤家(平成29年度の第2回佐野学市民講座を参照)の第11代当主で、高久靄崖に師事して絵を学び、風竹画を得意とした――から絵を習っていたというエピソードが伝わっています。また、正造は晩年、谷中村に移り住んで渡良瀬遊水地建設反対運動に取り組んでいた際、裁判のための資料として利根川と渡良瀬川の水害見取図(計4枚)を自ら作成していますが、佐野市郷土博物館に展示されているこの図は濃淡の巧みな使い分けなど、どことなく絵画的な趣を感じさせます。実際、『田中正造全集』(第5巻)には、正造の絵とされる墨竹図の写真が3点掲載されています(584頁)。しかし山口様によると、残念ながら今回の講演準備のための調査では、正造作と断定できる絵画は見つからなかったとのこと。田沼の西林寺で開かれた明治期の書画会のチラシに「小中村 田中正造」の名前が記載されている事実が新たに判明しましたが、同会における正造の位置づけはいわば世話人のようなものであって、作品を出す側ではなかった、と解されるとのことです。

そもそも、正造が幼少期に絵を習っていたというエピソードには続きがあります。
「予は又た近村なる葛生町の人、吉澤松堂(竹画に長ず、渡辺崋山と友たり)に就いて画を学ばんとし、父母もまた予に勧むるに挿花諸禮などの末技を以ってせり。然れども予は殆んど其一をも得る所なく、独り喧嘩相撲の技だけは長足の進歩を為し…」

『田中正造全集(第1巻)4-5頁。』

これは講演のなかでも紹介された田中正造の自伝の一節ですが、要するに正造は幼少期を回顧して、吉澤松堂から絵を学ぼうとしたが結局ほとんど何も身につかなかった、と述べているのです。

そのような次第で、山口様は今回の講演では正造の絵についてあまり多くを語られなかったのですが、彼の日記に描かれている挿絵を何点かご紹介くださいました。すなわち、明治3年5月の日記に、河川改修工事の技法を巧みな絵図面と共に書き留めた箇所が複数ありますが、山口様によると、それらの知見(一種の治水論)は晩年水害見取図を描くときにも活かされたと解されるそうです。

『田中正造日記』明治3年5月の挿絵

『田中正造日記』明治3年5月の挿絵

川筋が左右二股に分かれる所で、一方に比べて他方が低地になっているとき、低地側(図の右側)の下流にある田畑を水害から守るため、どのような工事を実施すればよいかを説いている。

『田中正造日記』明治3年5月の挿絵

治水のための工夫を図示したもの。

(2)書と歌

田中正造は極めて筆まめで、日記のほかに直筆の書簡が多数残されています。また、その他の墨跡として、自作の歌(短歌・狂歌)、気に入った漢詩、警句などを条幅や扇面に揮毫して支持者や知人に与えたものが数多くあります。また、田中正造の趣味としては後述する河原の小石集めが有名ですが、もう一つ歌作も有名で、『田中正造全集(第5巻)』には1000近くの自作の短歌や俳句が収録されています。今回の講演で山口様が紹介してくださった正造の書は全部で9点でしたが、そのうち5点も自作の歌を条幅に揮毫したものでした。

田中正造の書「人毎に 皆くちそそげ 田毎にも みなくちそそげ みなかみいのれ」

田中正造の書「飢て病む 民の家塚 もろともに 岸も噛ミ去る 毒の荒浪」

田中正造の書「たのしまば 布団も蚊帳も あるものか のミかにまでも 身をばさゝげつ」

田中正造の書「よの中ハ 凡(およそ)利口と馬鹿ばかり 我のみ独り めくらあんどん」

田中正造の書「潰れても まだほろびぬと おもふまでに 目なき耳なき 国のすりばち」

①「人毎に 皆くちそそげ 田毎にも みなくちそそげ みなかみいのれ」(大正2年6月30日)は最晩年の正造の心境をよく表すものとされ、栃木県指定文化財に登録されています。
②「飢て病む 民の家塚 もろともに 岸も噛ミ去る 毒の荒浪」(明治35年)は直訴事件の翌年の作で、足尾鉱毒問題を痛烈に批判したもの。
③「たのしまば 布団も蚊帳も あるものか のミかにまでも 身をばさゝげつ」(年不詳)は、がらっとトーンが変わって、どこか剽軽な印象を与えます。田中正造は江戸時代のうちに自己形成の大部分を終えた人で、明治時代の新しいタイプの知識人(大学出の学者や博士)やエリートを嫌っていました。また、そのような新しいエリートが鉱毒被害の実態を知らずに政治を行っていることに憤りを覚えていました。
④「よの中ハ 凡(およそ)利口と馬鹿ばかり 我のみ独り めくらあんどん」(年不詳)はそうした正造の思いをよく表しています。
⑤「潰れても まだほろびぬと おもふまでに 目なき耳なき 国のすりばち」(年不詳)も、足尾鉱毒の被害者を冷たく扱う明治政府の姿勢を痛烈に批判したものですが、つい最近、この歌を作るために正造が推敲を重ねた様子を示す貴重な資料が発見され、郷土博物館が新たに買い取ったとのこと。

山口様によれば、正造は上の句の末尾の字余り(「おもふまでに」)が気になり、これを「おもうなよ」に変えることを考えていたはずなのですが、どうしたわけか条幅に揮毫するときには字余りをそのままにし、別の個所を直しているそうです。

正造の作歌の様子を示す新資料
正造の作歌の様子を示す新資料。

田中正造の歌については、「最初の歌」と「最後の歌」の紹介もありました。山口様によれば、正造が詠んだ和歌(大多数は狂歌)のなかで最も古いのは「此民の あわれを見れバ 東路の 我古郷の おもひ出ニける」です。これは明治3年3月の作で、東北江刺県の官吏をしていたとき、かの地の飢饉の惨状を調査しつつ、ふと故郷の小中村を思い出した心の動きを日記に書きつけたもの、と解されています。また、正造が最後に詠んだ歌は「夏ながら 夢は枯れ野を かけめぐる あはず文庫に かり枕らして」で、大正2年7月4日の日記に記されています。晩年の田中正造の側近くにいて、最後まで行動を共にした島田宗三は、この歌を「田中翁の辞世の作」として書き留めているそうです。

田中正造の書

田中正造の書

田中正造の書

田中正造の書

先に、今回の講演で山口様が紹介された正造の書は全部で9点、そのうち5点は自作の和歌を揮毫したものだったと述べましたが、他の4点は、1点が画賛で、島田延助(号:石仏)の竹画に正造が自作の詩句を揮毫したもの(⑥)、1点は「朱子語類」に記されている朱熹の有名な言葉を書いたもの(⑦)、そして残りの2点は田中正造の最晩年の傑作と言われる書で、どちらも老子の思想に着想を得た言葉「真人無為而多事」を揮毫したものです(⑧と⑨)。この2つの作品は同じ日(大正2年6月30日)に書かれたものですが、島田宗三の『田中正造翁余録』にそのときの様子が詳しく記録されています。それによると、正造は親しい知人に頼まれて機嫌よく20数枚の書をすらすら書いた、とあります。そして、書を書き終えた後、同席者のなかから彼の記念碑や銅像を建てたいという話が持ち上がると、途端に機嫌が悪くなり、「僕の話を実行するでもなし、ただ記念碑や銅像をつくったとて何もならない」「死ねば川に流すとも、馬に食わせるともかまわない。(中略) 墓だの宮だの銅像だのというものは、金ばかりかかってつまらない」と述べたとされます。山口様はこのエピソードを紹介して、「ところが今日では田中正造の銅像が5つも6つも建てられている。(佐野市郷土)博物館だけでも2つある」と苦笑交じりに述べていらっしゃいました。

【田中正造の石】

田中正造は河原の小石拾いを趣味とし、支持者や知人に自分で拾った小石を贈ることがありました。このことは、本年2月に上演された劇団民藝の「正造の石」でも象徴的な仕方で取り上げられ、今日では比較的有名な事実になっています。佐野市郷土博物館の田中正造展示室には、正造が他界したときに所持していた遺品が展示されていますが、そのなかにも3つの石があり、他の遺品と共に県指定文化財に登録されています。山口様によると、しかしこれら3つの遺品の石は、正造が普段拾い集めて支持者や知人に贈っていた小石とは、やや趣が異なります。正造が知人に贈ったのは表面が滑らかで光沢があり、一見して綺麗だと感じる小ぶりの石ですが、遺品の石にはそうした特徴がありません。特に2つはやや大ぶりで、むしろごつごつしています。そこで、山口様が石好きの方に見てもらったところ、大ぶりの石の1つは富士山の形に見立てたもの、やや小ぶりのものは模様が3つに分かれているところに面白味があるもの、と指摘されたそうです。

また、最後の1つは有名な「桜石」で、含有鉱物によって形成される模様がちょうど桜の花びらに見えることからそう呼ばれるものですが、従来これは渡良瀬川の上流、足尾方面でのみ採れるものと言われてきました。ところが、やはり石好きの方に聞いたところ、桜石は佐野からそう遠くない、足利日赤病院付近の渡良瀬川の河原でも見つかることが判明しました。足利は大正2年夏、正造が他界する直前に最後に旅をしたルートに含まれているので、山口様はそこで拾った可能性が高いと考えているそうです。なお、講演では3つの遺品の石の重さが発表されました(本邦初公開だそうです)が、これは受講者のみに特別にお知らせするものとのことでしたので、本報告書への記載は差し控えます。

※正造の石は敢えて画像を載せません。ぜひ郷土博物館で実物をご覧ください。

【田中正造と万葉集】

平成25年(2013年)、私的なご旅行という形で田中正造ゆかりの地を訪問された当時の天皇皇后両陛下――現在の上皇上皇后両陛下――は、佐野市郷土博物館にも30分ほど立ち寄られ、田中正造に関する展示をご覧になりました。特に直訴状――直訴は失敗に終わったので、明治天皇の目に触れることはなかった――は全文を一行一行、丁寧にお読みになったそうです。(その様子は当時新聞等でも詳しく報じられましたので、ご存知の方も多いのではないでしょうか。)

ところで、このとき山口様は博物館館長として案内説明役をつとめられたのですが、数日前に宮内庁の方から連絡があり、「皇后様から、佐野に長年住んでいる人だったら誰でも分かるご質問があります。ごく簡単なものですから、安心してください」と言われて、大変なプレッシャーを感じていたそうです。そして当日、館内での予定の行程を終えてご休息の席へ移動するとき、皇后陛下から「万葉集には『佐野の舟橋』についての歌が幾つかありますけれども、その『佐野の舟橋』はこちらにあったものですか」とのご質問があったそうです。山口様曰く、「私も博物館に勤めて10年目ですが、この『佐野の舟橋』について質問をなさったのは皇后様お一人だけで、非常に印象に残っている」のだそうです。なお、佐野の舟橋は残念ながら佐野市にあるものではなく、現在の高崎市にあったそうです。最後に、講演のなかで紹介された、「佐野の舟橋」に関する歌を列記しておきます。

「上つ毛野 佐野の舟橋 取り放し 親はさくれど 吾は離るがへ」(万葉集 巻十四)
「五月雨に 佐野の舟橋 浮きぬれば 乗りてぞ人は さし渡るらん」(西行 山家集)
「駒とめて 袖うち払ふ 影もなし 佐野の渡りの 雪の夕暮」(藤原定家 新古今和歌集)
「いつみてか つげずば知らん 東路と 聞きこそわたれ 佐野の舟橋」(和泉式部 和泉式部続集)

田中正造が歌作を趣味にしていたことと皇后様が田中正造展示をご覧になったあとに和歌についてご質問をなさったこと、単なる偶然の一致と知りつつ、報告者にはとても興味深く感じられた次第です。

演壇を降りてお話する山口様
演壇を降りてお話する山口様
報告書では再現できませんでしたが、終始笑いの絶えない、ユーモアたっぷりの講演でした。

受講者の声

  • 正造さんの日常についての貴重なお話をうかがうことができ、また意外な一面を知れることができて、楽しかったです。(70代・男性)
  • 地元の偉人について知らないことがいかに多いか思い知らされました。(80代・男性)
  • 飽きがこないよう、上手にお話してくださったので、田中正造のことを最後まで興味深く学ぶことができました。(20代・女性)
  • 田中正造の内面についてのお話を伺えて、親しみを覚えました。今までは、厳めしい側面しか知りませんでしたが、多面的な人物だったと知り、大変勉強になりました。(80代女性)
  • (一昨年受講した)津久居家と田中正造との関りの話と内容が重なって、正造についてさらに深く理解することができました。(70代・女性)

※講座後のアンケートに寄せられたコメントの幾つかをご紹介しています。
※文意を損なわない範囲で、一部文言を変更しております。ご了承ください。

ご参加くださった皆様、アンケートにご協力くださった皆様、誠にありがとうございました。
佐野日本大学短期大学 佐野学担当 川副令

【お断り】書画等の画像は、すべて講演用のスライドから転載したものです。

参考リンク

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