佐野学講座

  1. HOME
  2. 佐野学講座一覧
  3. 絵画で学ぶ佐野の歴史

この町の美術館:立ち止まって、振り返ってみませんか?

第4回 2019/7/27(土)午後1時00分

『この町の美術館:立ち止まって、振り返ってみませんか?』

講師:佐野市内にある4つの美術館の関係者の方々
場所:佐野市中央公民館 3階大ホール

2019年7月27日(土)、令和元年度佐野学市民講座「絵画で学ぶ佐野の歴史」の第4回講座が、佐野市民大学との共同プロジェクトとして、佐野市中央公民館の3階大ホールで行われました。テーマは「この町の美術館:立ち止まって、振り返ってみませんか?」で、佐野市にある4つの美術館から関係者にお越しいただいて、オムニバス形式で講演をしていただきました。会場のすぐ外のロビーでは、安藤勇寿特別展も同時開催されました。

【会場の様子】300名を超える方にお越しいただきました
【会場の様子】300名を超える方にお越しいただきました。

【登壇者の皆様】右手前から左奥へ講演順に座っています
【登壇者の皆様】右手前から左奥へ講演順に座っています。

佐野東石美術館 菊池宏行様(東京石灰工業株式会社 代表取締役社長)

1.設立から現在への流れ(第一フェーズ)
美術館設立の経緯と理念 佐野東石美術館が設立されたのは、1980年(昭和55年)の2月7日です。東京石灰工業株式会社の創業者で、美術館の初代館長でもある菊池登は、「高度経済成長期を経て、日本社会が物質的に豊かになる中で、人々の心も豊かにしたい」との思いを抱いていました。また、話題性のある有名な美術品の大部分が大都市圏の一部の美術館やギャラリーに集中している状況を念頭に置いて、「地方の方々にも文化的芸術的価値の高い作品に身近に接する機会を提供したい」と考えておりました。つまり、物質文明の発達に豊かな文化を伴わせて人間の質を高めること、それこそが地域社会のために大切だ、という理念が当館設立の根本にあったのだと理解しています。

コレクションの特徴 佐野東石美術館のコレクションは幅が広く、日本、西洋、そしてアジアの各地から、絵画、木彫、陶器、鋳金など、いろいろな種類の美術品を集めています。地方ではなかなか身近に接するのが難しい、話題性のある美術品を市民の方々にお見せしたいという設立の理念に従って、専門の施設でしか展示できないようなスケールの大きい作品を意図して多く集めている点に特徴があると考えております。

代表的な収蔵品 ここで代表的な収蔵品を何点か紹介いたします。(※報告者注:以下、講演では高画質のスライドを映しながら、作者と作品タイトルのみの紹介でした。時間の制約に加えて、美術品それ自体の良さは実物を見て感じてもらうしかないとのお考えに基づき、敢えて言葉での説明を省かれたのかもしれない、と感じた次第です。)絵画は、加山又造「蝶」、竹内栖鳳「八咫烏」、後藤英雄「みどりの大地」、田染幸雄「上高地早春」、横田善夫「朝の田園」などです。木彫は、高村光雲「狗犬」、平野富山「七福神」、山?朝雲「薬研」、円空「護法神」などです。陶器は、北大路魯山人「金彩むさしの鉢」、松井康成「練上玻璃光大壺 銘〈星華〉」、濱田庄司「白釉黒流描大鉢」、田村耕一「鷺陶板」などです。そして鋳金は、高村豊周「朧銀花入〈みづたま〉」、中村晋也「水辺の囁き」、小杉拓也「万里の長城」、富永直樹「クリスマスイブ」などです。

佐野東石美術館3階展示室
(佐野東石美術館3階展示室)

2.現在から未来に向けて:新しい試み
所蔵品の貸出(第二フェーズ) 設立当初は佐野近郊の方に美術品を見ていただくことを目的にしていましたが、先代社長の菊池義明の頃から、当館の所蔵品をより多くの方に見ていただくために、他の美術館やギャラリーから要請を受けたときには、外部の企画展などに作品を積極的に貸し出すようになりました。そのうち2件の事例について、少し詳しく紹介いたします。(※報告者注:講演では佐野東石美術館の作品貸出事例一覧が参考資料として配布されました。)今年の佐野学市民講座第1回の内容と関係するものですが、2006年(平成18年)に明治神宮で、明治神宮外苑創建80年記念特別展「小堀鞆音と近代日本画の系譜―勤皇の画家と『歴史画』の継承者たち」が開催されました。このときは、当館所蔵品のなかから前田青邨「獅子」、狩野芳崖「江山一望之図」、富岡鉄斎「椿石祝寿図」を貸し出しております。次につい最近の事例ですが、昨年(平成31年)、東京国立近代美術館及び京都国立近代美術館で開催された「生誕150年 横田大観」展に、横山大観の「瀑布」という作品を貸し出しております。この「瀑布」は、ナイアガラの滝と万里の長城を2枚の金屏風にそれぞれ描いた雄大な作品で、皆様にも是非ご覧になっていただきたいと思っていますが、東京国立近代美術館では天皇皇后両陛下(いまの上皇上皇后両陛下)にもご覧いただく機会がありました。特に天皇陛下はこの作品の前でしばらくお立ち止まりになり、40年ほど前に中国で万里の長城を見たときに受けた印象を思い出したとのご感想を述べられたそうです。ちなみに、当館の最初の貸出作品もこの「瀑布」で、1987年(昭和62年)、横山大観生誕120年を記念して銀座松屋ほかで開催された「横山大観屏風絵」展に出品されました。

これからの取り組み(第三フェーズ) これからの取り組み、あるいは挑戦として、従来美術館や美術品にあまり関心がなかった方々にも気軽に来ていただけるような、誰にでも楽しめる展示のあり方を模索していきたいと考えています。例えばヨーロッパの国で美術館を訪問すると、ただひたすら美術品を鑑賞するのではなく、そこで本を読んだりしながらゆったりと時間を過ごす人たちもいます。いわば「美術品が近くにある豊かな空間」の空気感を楽しんいるわけですが、そういう自由な楽しみ方をしてもらえるような展示のあり方でいいのではないか。
美術作品の展示のオーソドックスなスタイルと言えば、特定の作家を中心に据えて、その作家の作品を体系的に紹介する、あるいはその作家と関係がある他の作家たちの作品を体系的なジャンル分けによって展示する、というものです。絵画は絵画コーナー、彫刻は彫刻コーナー、というわけです。当館でも従来は主にこのオーソドックスな方法によって、年4回の企画展を行ってきました。この展示のスタイルは、美術や美術史について一定の知識がある人にとっては馴染みやすいものですが、これまで美術品に接する機会が少なかった人にとってはどうしても堅苦しく、敷居が高いと感じられるところがあるように思います。

具体例(チャレンジ)の紹介 そこで、最近では年4回の企画展のうち1回は、従来のオーソドックスな展示法や作品のジャンル分けに敢えて拘らず、総合的なテーマで括られる多様な作品を集め、視覚的な面白さ(エンターテイメント性)を高めた新しい展示のやり方に挑戦しています。

展示例1 加山又造「蝶」と高橋鉱「色絵磁器金銀彩アカシア合歓図大皿」
展示例1 加山又造「蝶」と
高橋鉱「色絵磁器金銀彩アカシア合歓図大皿」

展示例2 下田義寛「清韻」と神保 雅「翡翠」
展示例2 下田義寛「清韻」と
神保 雅「翡翠」

例えば、展示例1では、花柄の絵皿(陶器)と蝶を見る猫の絵(絵画)を組み合わせて展示していますが、これなどは絵皿の花から飛び出してきた蝶が絵の中に入り、それを猫が見つめているという物語性を(展示する側や鑑賞する側で勝手に想像して)楽しむことができます。従来の考え方によると、このような(二次創作的な要素を含む)展示の仕方は作家や作品に対して失礼だと言われかねないのですが、敢えて伝統的なスタイルを崩して気楽に芸術作品を楽しんでもらえる機会を増やすことが、かえってアーティストの方々の意にも沿うのではないかと考えたのです。この展示例で言いますと、私などは皿と絵をもっと近づけてもいいと思うのですが、当館の学芸員はいくら何でもやりすぎだと反対しまして、結局このくらいの距離になりました。展示例2は、絵画のカワセミと木彫のカワセミを関連付けたものですが、平面と立体の表現の比較を楽しんでいただくと同時に、やはり何らかのストーリー性を想像してもらえるのではないかと考えました。
今後も、美術作品を見る人々の目線を意識しながら、また美術品に囲まれた空間や時間をより多くの方に楽しんでいただけるよう、作家の方々や作品に対して失礼にならない範囲でいろいろとチャレンジしていきたいと思っています。

佐野市立吉澤記念美術館 末武さとみ様(同美術館学芸員)

1.佐野市立吉澤記念美術館の特徴
美術館成立の経緯
 当館は旧葛生町立吉澤記念美術館として、2002年(平成14年)の6月にオープンしました。それに先立って、2000年(平成12年)には美術品のコレクションが、また2002年の3月には新築の美術館施設が、いずれも地元の旧家である吉澤家から葛生町(当時)へと寄贈されております。開館後は、2005年(平成17年)の市町合併に伴い、佐野市立吉澤記念美術館へと名称を変更した。なお、当館についてのよくある質問で、最初は私立美術館だったものが後に公立(町立→市立)になったのかとお尋ねになる人がいますが、そうではありません。吉澤家から寄贈されコレクションと施設を基にして、最初から公立の美術館としてスタートしております。

県内市立美術館との比較 県内の市立(町立)美術館を見回してみると、比較的規模の大きい宇都宮市立美術館(1997年開館)と足利市立美術館(1994年開館)は、それぞれ幅広い美術品のコレクションを有し、多種多様な企画展示を実施するなど、地域の文化芸術活動の総合拠点としての位置を占めていると言えます。他方、鹿沼市立川上澄生美術館(1992年開館)、那珂川町馬頭広重美術館(2000年開館)、とちぎ蔵の街美術館(2003年開館)、小山市立車屋美術館(2009年開館)など、相対的に言って規模の小さい美術館は、特定の作家の作品群を展示の中心に据えたり、企画展を一定の美術ジャンルに特化させるなどの方法で、それぞれ美術館としての特徴を作り出しています。そうしたなかで、佐野市吉澤記念美術館の特徴は、美術品を愛好する地元の旧家の当主たちが、江戸時代末期から現代まで5代にわたって蒐集蓄積してきたコレクションを中心に据えている点に大きな特徴があります。このコレクションは、北関東における美術品収集のあり方を考える上でも高い史料的価値を有するものではないかと考えています。

吉澤コレクションの特徴 皆様ご存知だと思うのですが、最も有名な作品は、国の重要文化財にも指定されている伊藤若冲「菜蟲譜」です。若冲の作品で重文指定を受けているのは、この「菜蟲譜」を含めて4点のみです。作品保護のため、普段は実物をお見せすることはできないのですが、代わりに非常に高品質のレプリカを、2メートルくらいずつ展示しています。(※報告者注:「菜蟲譜」は巻物状で長さが約11メートルあります。)「菜蟲譜」は1999年に72年ぶりに所在が確認され、全国的なニュースにもなりました。2000年の京都国立博物館での「若冲」展以降若冲ブームが起き、その中で当館も開館、ブームと共に歩んできました。吉澤コレクションの第2の特徴は、近代陶芸の最高峰とも言われる板谷波山の作品を多く含んでいることです。当館所蔵のものと個人の所有者から寄託を受けているものを合わせて40点あり、こちらは常設コーナーを設けて数点ずつ展示しています。生前の波山と吉澤家当主の間に交流があったことがコレクション形成のきっかけで、単に高額のお金を払って有名な作家の作品を集めたというのではありません。そのような、蒐集過程にストーリーがあるコレクションである点に、ご注意いただきたいと思います。第3の特徴は、近代日本画の作品が充実していることです。所蔵点数が最も多いのはこのジャンルの作品なので、企画展でもそれらがメインになることが多いです。

佐野市立吉澤記念美術館

2.運営と継続――何のために美術館を続けるか?
美術館の役割 美術館の役割の一つは、皆が「芸術」に触れる機会を提供することだと思っています。長い人類の歴史のなかで芸術が絶えた時代はありません。それは芸術に何か意味があるからに違いありません。芸術にはいろいろの意味があると思いますが、特に人々の「目」を変える力があることを強調したいと思います。気持ちの切り替え、価値観の転換、身近なものが持つ価値の再発見、そうしたことを促す力です。また、美術館は博物館の一種ですが、博物館や美術館には過去から現在に受け継がれてきた「大切なもの(宝)」を未来に運ぶという役割もあると思っています。博物館の展示品もそうですが、美術館が収蔵している芸術作品にも、社会や地域のアイデンティティを形作っていく力があります。ただ、それには作品を見る人々にその価値(大切さ)を理解してもらう必要があります。芸術作品の価値を多くの人々に伝え、また私達の宝として後世に守り伝えていくには、お金も労力もかかります。それも皆様からの承認があってはじめて可能になるものと考えています。

目を変える力 芸術の力について少し具体例を挙げて説明します。例えば唐澤山の天狗岩から佐野の町を見下ろす眺めは写真で見ても素晴らしいですが、この眺めを背景に配しつつ唐澤山の別の場所に生えている松の木を大きく描いた松本哲男「松韻」には、どこか深遠な雰囲気が漂っていて、喩えて言えば中国南宋時代の水墨画のような崇高さが感じられます。見慣れた郷土の風景が、絵になることでまた違った輝きを持つもののように見えてくるわけです。別の例ですが、陶芸では古くから「貫入(かんにゅう)」という「ヒビ」を美しいもの、趣のあるものと捉え、創意工夫を重ねて敢えて美しいヒビを入れる技法を発展させてきました。私たちの日常の感覚ではヒビは良くないものと捉えられがちですが、芸術は違う見方を教えてくれます。

活動の紹介 当館はこのような考え方に基づいて様々な活動を行っています。その例を3つほど挙げてみたいと思います。1つ目の例は、芸術が持つ「目を変える力」を使って、葛生にとって極めて身近なものである石灰や石灰産業について、さまざまな角度から親しむ機会を提供することです。2017年には「石灰と美術」という展覧会を開催し、フレスコ画や大理石彫刻、「石灰の音を聞く」コンセプトのインスタレーション(仮設芸術)の展示を行い、またフレスコ体験教室や化石館、伝承館、図書館と当館が連携したイベントを実施しました。2つ目の例として、「大切なものを未来へ運ぶ」ために「菜蟲譜」の名作化計画をすすめてきました。名作とは「時代を超えて受け継がれてきた優れた芸術作品」と定義できますが、そのためには単に作品自体が優れているだけでは不十分で、その優れた点を誰かが研究して言語化しなければならず、また長い年月に耐えるよう修復保存を行わなければなりません。またそうした労力を継続するためには、多くの人に作品の良さを知ってもらい、また作品に親しんでもらわなければなりません。当館では「菜蟲譜」の研究、修復、展示、レプリカ(複製)の製作、そしてグッズ作成など、1000年後を目標に据えて、この作品を長く伝えていくつもりで取り組んでいます。3つ目の例として、「大切なもの」を大切に思ってもらえる「入り口」を作る活動として、とにかく芸術作品に親しんでもらうことを意識して、当館所蔵品による企画展(年3回)と借用品を中心とする特別企画展(年1回)を親しみやすい切り口で開催しています。

「菜蟲譜」の修復 Before → After

「菜蟲譜」の修復 Before
修復前

「菜蟲譜」の修復 After
修復後

3.吉澤コレクションを掘り下げる
両毛地域の文化的特徴 最後に、吉澤コレクションが成立した歴史的背景に分け入ってみると、佐野に限らず、足利や桐生なども含む両毛地域一帯の文化的な特徴が浮かび上がってきます。吉澤家当主として最初に美術品の蒐集を始めた吉澤松堂は、渡辺崋山や高久靄?といった江戸の著名人と交流を有していましたが、それは何も彼に限った話ではありませんでした。両毛地域では、例えば水戸藩などと対照的に、江戸時代を通じて「殿様」の陰が薄く、武家・武士ではなく商家や寺社が中心となって江戸から文人墨客を招いて、学問や芸術文化を広めてきました。中根東里以来、この地域の教育の中心は藩校ではなく私塾でした。「東里遺稿」の出版事業も、佐野の地元の人々の力で、しかも没後90年経って東里の弟子の世代の想いを受け継ぐ形で実現されています。(報告者注:当時、地方限定での出版は資金面からも大変な事業でした。)今日の言葉で言えば、この地域では江戸時代から「市民」が学問や文化の中心的な担い手だったのです。

佐野の文化リレー しかも、その成果はいろいろな形で今日まで伝えられてきています。例えば江戸時代の須藤家の蔵書を調べてみると、一部は大阪方面に流出したりしていますが、一部は須永元が受け継いで没後も「須永文庫」となって地元に残り、それらは現在佐野市郷土博物館当館に所蔵されています。当館が所蔵する吉澤コレクションも、そうした「佐野の文化的リレー」の一環として成立したもので、それを将来世代に伝えていくのが当館の役割だと思っております。

三好記念館 蓼沼恒男様(公益財団法人三好園 理事長)

1.美術館の設立とコレクションの形成
美術館を設けた理由 三好記念館は1975年(昭和50年)4月29日に開館しました。経営の母体は財団法人三好園です。三好園は1911年(明治44年)に「三好慈善団」として設立され、1919年(大正11年)に財団法人化していますが、当初からずっと育英事業を行い、2013年(平成25年)に公益財団法人の認定を受けて、今日に至っています。なぜ育英事業を主とする財団が美術館経営に乗り出したかと言えば、それは戦後復興期から高度成長期を経て、世の中に金銭万能の風潮が広まり、心の荒廃が憂慮される時代状況があったからにほかなりません。そのなかで、三好園の第4代理事長(前理事長)である蓼沼荘治が「小さくとも人々の心を癒し、情操を豊かにするお手伝いをしよう」との考えを抱き、それを広く社会に資する事業として行う計画を立てました。その具体化が美術館設立だったのです。

コレクションの特徴 三好記念館の主な所蔵品は、日本、中国、朝鮮、ベトナム、西アジアなどの陶磁器で、なかでも中心となるのは伊万里焼、鍋島焼など、肥前の磁器コレクションでした。その他に、少数の書画がありました。これらの所蔵品は、他の私立美術館や私立博物館の場合と異なって、基本となる個人のコレクションが先にあったわけではなく、先ず美術館設立の理念があって、その実現のために後から蒐集されたものでした。私立美術館は通常は個人や旧家のコレクションを基にしていますので、このことは三好記念館の大きな特徴であったと言えます。ところで、三好記念館の収蔵品を伊万里焼や鍋島焼にすることを決めた直後、それまで東京都内にあった栗田美術館が隣町である足利市内に移転するという出来事がありました。栗田美術館は伊万里焼のコレクションとしては世界有数のものですから、それと展示や蒐集の方向が重ならないように配慮がなされました。具体的には、栗田美術館のコレクションは「官窯」の作品、それぞれの時代と地域を代表する完成されたスタイルの美術品が中心です。これに対して三好記念館では意図的に「民窯」の作品、つまり自由で枠にとらわれない作品を集めました。そうしたところ、愛好家の方々から、2つの美術館の展示が補完しあって伊万里焼の幅の広さや奥行きの深さを楽しむことができるとの高い評価を受けることができました。

コレクションの形成 三好記念館のコレクションの大部分は、前理事長の考えを受けて財団法人三好園の評議会で文化事業に乗り出す旨の決定が行われてから、わずか3年余りの間に整えられました。その間、前理事長自身が中国や香港へと足を運んだほか、地元の愛好家の助けも借りて、集中的に収蔵品の蒐集作業が行われました。また、当時東京国立博物館学芸部陶磁室長だった矢部良明氏や、元国立博物館次長で栗田美術館館長(当時)の林家晴三氏からの指導も受けることができました。その結果、限られた予算と時間のなかでコレクションの質と量を高め、上述のような一定の評価を受ける美術館を開館することができたのだと考えております。

旧三好記念館の展示室
旧三好記念館の展示室

2.美術館経営の難しさ
美術館を取り巻く環境の変化
 開館の約7年後、1982年(昭和57年)2月、三好記念館は栃木県教育委員会から県南地域第1号となる「私立博物館登録」を受けました。これは三好記念館が「広く社会に資する事業」であることが公式に認められたことを意味していましたから、設立者たちにとっては大変意義深いことでした。同じ1982年の5月に、私が三好園の第5代理事長に就任しました。開館以来、美術館の収蔵品を中心とする企画展を続けておりましたが、その頃は年間約5000人の来館者がありました。しかし、そのうちに徐々に変化が生じてきました。どう表現してよいか難しいのですが、一種の「マンネリ感」とでも呼ぶべきものが、私共運営の側に生じて参りました。それと相前後して来館者の数も減っていき、顔見知りの方だけが何度も訪れる状態になっていきました。加えて、この頃になると地方にも公立の美術館や博物館が増えはじめましたが、それが金銭万能の風潮と相まって、美術工芸品の資産的価値の比較にばかりに注目が集まる状態となっていきました。私は美術品の価値は金額で決まるのではなく、本物だろうと、偽物だろうと、自分が好きなものが一番いいのだと強く信じておりますので、美術品の金銭的な価値ばかりを云々する世相を嫌悪し、次第に自分たちの使命はもう終わったのではないかと思うようになりました。

最初で最後の特別企画展 1993年(平成5年)12月、新聞に若くして亡くなった木版画家、海野光弘の作品を集めた展示会に関する記事が掲載されました。私はその記事に感動し、横浜(ボッシュセンター)で行われていた展示を見に行き、そしてその場にいた海野夫人(未亡人)にお願いをして、三好記念館で特別企画展をやらせてくれと熱く語りかけました。
古民家、里山、農村など、日本の原風景を描いた海野氏の木版画には、忙しく時間を過ごす私たちが忘れてしまった大切な何かが表現されており、これこそ三好記念館で展示すべきもの、設立者が抱いた理念にピッタリと当てはまるものだと即座に確信を抱いたのです。熱意が通じたのか、三好記念館で海野光弘特別企画展を実現できる運びとなりました。しかも、わずか38日間の短い企画展に県内各地から1500人を超える来館がありました。企画展をご覧になった方から下野新聞の「読者登壇」欄に、「こんな小さな町の美術館では、本当にもったいないと思ってしまうほどの素晴らしい内容で、会場を出てからも涙が止まらず、車の運転をしばらく見合わせるほどでした」という投稿がありました。主催者として感激すると同時に、作家が作品に込めた思いをわずかなりとも来館者に伝えるという美術館の役割の大切さを改めて痛感しました。しかし、このときほどのエネルギーを再び文化事業に傾けることは難しく、これが三好記念館で行われた最初で最後の特別企画展になってしまいました。

木版画家、海野光弘の作品を集めた展示会のチラシ

地元の愛好家とのつながり 三好記念館は設立当初から地元の愛好家とのつながりがありましたが、1999年(平成11年)に日本陶芸協会の「とちぎ県南支部」が設立され、三好記念館がその事務所になりました。ほぼ毎月1回の割合で勉強会(例会)が行われ、それを通じて陶芸作品や他の美術品に関する貴重な情報が寄せられたほか、愛好家の方々に三好記念館の収蔵品を実際に手に取って触っていただく機会を設けることで、つがなりを一層深めることができました。こうした地元愛好家とのつながりもあって、私はいま栗田美術館の評議員をつとめ、その運営のお手伝いもさせていただいています。他方で、日本各地に「コレクター」と言われる方々が沢山おられるということ、彼らが持っている貴重な美術作品は多くの場合公開されることなく、一部の人だけが隠れて楽しむものになってしまっているということ、それだけに美術館の役割が大切なのだということを、このとき強く意識させられました。

3.閉館から新しい文化事業活動へ
美術館を閉じた理由
 しかし、特別企画展を行った平成5年頃には、既に来場者の数は減少の一途をたどっていました。そうしたなかで、いつの間にか企画展の開催や来場者数の確保が自己目的になってしまい、前理事長が望んだ「人々の心を癒し、情操を豊かにすること」という理念からは離れてしまっていました。私は企業経営者として、限られた経営資源を如何に有効に活用するかを常に考えておりますから、三好園についても育英事業と社会文化事業をどう両立させるのが最適であるかに頭を悩ませておりました。そして、改めて三好園の起源を訪ねて先祖の書き残したものなどを調べているうちに、私の進むべき道は育英事業に注力することだと決心するに至りました。率直に言うならば、私は父である前理事長の文化事業の理念を理解し、それを受け継いではいましたが、しかし前理事長と同じほどのエネルギーとリーダシップを持ち合わせているわけではなかった、ということなのだと思います。結果的に、美術館隣接地に商業施設を建設する計画が持ち上がった2008年(平成20年)に美術館の建物を取り壊し、社会文化事業を休止しました。

新しい文化事業の形 三好記念館閉館の2年前、先ほど菊池氏のお話のなかに出てきた明治神宮外苑創建80年記念特別展「小堀鞆音と近代日本画の系譜―勤皇の画家と『歴史画』の継承者たち」が開催されました。このとき三好記念館からも3点の掛軸(うち2点は鞆音の作品、もう1点は田崎早雲のもの)を貸出しました。この経験から、必ずしも専用の建物を持たなくても、コレクションを活用した社会文化事業を継続できるというヒントを掴んだ気がいたしました。少しでも多くの人に、もっと気軽に古美術品に触れていただくために、2012年(平成24年)から佐野市文化会館の施設を借りて、旧三好記念館の収蔵品を活用した企画展を開催するようになりました。今では佐野市文化会館に加えて足利市立美術館の施設も借りて、年2回の企画展を実施しています。毎回、来館者からいろいろなコメントや質問をいただいていますが、特に「ホッとしました」「豊かな時間を過ごすことができました」などの感想を目にすると、設立者である前理事長の思いを幾らかでも引き継ぐことができているのかな、と感じます。

次世代へのメッセージ ごく少数の例外を除いて、日本では大多数の美術館は来館者が少なく、財政基盤がぜい弱です。他方で、最近では美術品の資産的価値に注目が集まり、美術品への投資が盛んに行われていて、結果として価格高騰が生じています。そもそも財政基盤が貧弱な美術館は、新しい美術品を買うことがますます難しくなっています。それどころか、コレクションの一部を切り売りして何とか経営を続けているという事例さえ耳にします。美術館や博物館は新しい収蔵品がないと、どうしても話題性が乏しくなり、来館者を呼ぶのが難しくなります。そうした厳しい状況のなかで、これからも敢えて美術館の経営を続けるのであれば、第1に自分たちの担おうとしている社会的使命を改めて強く自覚すること(設立理念と自己検証)、第2に一度来館してくれた人にもう一度来てもらえるような工夫をすること(呼び込みではなくリピーターづくり)、そして第3に、公的な施設について言えば、経営方針や財務状況についての説明責任を果たして地域の人々の理解と支援を得ること(アカウンタビリティー)、以上の3点が特に重要になってくると考えています。

安藤勇寿「少年の日」美術館 安藤勇寿様(画家)

ご挨拶 最後まで残ってくださって、本当にありがとうございます。佐野の人達はやっぱり情が厚いなと感じています。今日は皆様との交流会ということで、よろしくお願いします。
今日は、私の絵を会場の外のロビーに展示していただきました。それらは、日常の生活のなかで生じた目に見えない感情の部分を、目に見える絵の形にしたものですから、皆様もそのうちの1点や2点は「これは分かる」と共感してくださったのではないかと思っています。私がなぜ他の画家のように、目に見える美しいもの、例えば自分が美しいと思った風景や美しいと思った人物などを描くのでなく、目に見えない感情を描こうとしたかと言えば、せっかく絵を描くのなら、絵を通じて自分という人間を知ってみたい、自分がどういう大人なのかを知りたいと思った、それが一つ大きな理由としてあります。それで、皆さんが私の絵を見た上で私に対して何か質問があれば、また私に何か伝えたいことがあれば、ぜひ教えていただいて、私からも説明をさせていただきたいと思いますので、ご協力をよろしくお願いします。

特別展の様子

特別展の様子

特別展の様子

質問 最近、安藤先生の絵の横に「詩」が添えてあったり、ちょっとした説明の「ことば」が付けてあって、それが増えているように思うのですが、何か心境の変化などがあったのですか?
安藤 画家ですから、確かに絵で表現するのが一番ですが、10年ほど前に私の書いた文章を褒めてくれた人がいました。それで、言葉で表現するのも悪くないのかな、と思うようになりました。感情を絵で表現するというのはとても大変なことです。画家として力不足だと言われたらそれまでなのですが、どうしても絵では表現しきれない、自分でもうまく表現できなかったと感じることがあります。褒められたことがきっかけで、それを言葉で補ってみようと思うようになったのです。特に4年ほど前からは、仕事の依頼でも、絵だけでなくて詩や説明を付けたものをお願いされるようになって、それならもっとやってみようと。そうして実際にやってみて、言葉の力、日本語の表現の豊かさに、改めて気づかされた面があります。感情表現もそうですが、いわゆる四季に加えて、ほんのちょっとした季節の変化を表現する語彙が如何に多いか。文章を書くようになって、改めて日本人に生まれてよかったなと感じたりしています。

質問 安藤先生の絵と、山下清の絵が似ていると感じたことがあるのですが、安藤先生は山下清についてどう思っていらっしゃいますか?
安藤 尊敬…しています。好きな画家は沢山いますが。先ほど日本語の豊かさということを言いましたが、山下清に対する私の尊敬の思いをうまく表現するのは、なかなか難しいです。ですが、山下清さんそのものを丸ごと大好きです。山下さんの絵を見ると、人間で良かったと感じさせてくれる。私はそう思います。私の絵が山下清の絵に似ているというのは、最高の誉め言葉をいただいたのだと思います。人間は、「おぎゃー」と生まれ落ちてから、それぞれ別々の人生を歩みますが、そのどれが良くて、どれが悪いということはないのだと思います。山下さんは、画家として、いろいろな方と出会い、そして誰とでも仲良く接する人生を歩まれた。誰とでも仲良くするというのは、人間として一番大切なことだと思っています。それは誰でも知っているのに、実際にやってみようとすると一番難しいことでもあります。私が勉強不足で、よく知らない画家も他にいると思いますが、私の知る範囲では、山下清さんは誰とでも仲良くする人生を歩んだ人です。今日ここにいらっしゃる方は、私と何か少しでもかかわってみたいと思ってくださった方でしょうから、そういう意味でも私はとても感謝しています。当たり前ですが、私の美術館には私の絵しかありません。それを楽しむコツは、ちょっと友達の家に行くというような気分で、会いたくなったから会いに行くというような気軽な気持ちで来ていただくことだと思います。是非そういう気持ちで、ぶらっと遊びに来てください。(会場から拍手)今日は最高の誉め言葉をいただきまして、このあと帰ってまた絵を描く予定でしたが、大変な大きな力をいただきました。

質問 安藤先生の美術館は、山の中にあって、周囲の環境や四季の美しさも含めての美術館なのだと思っているのですが、その点についてどのようにお考えですか?
安藤 駅前にあれば便利なのですが、子どもたちにももっと来てもらえるでしょうし。それなのに、なぜ山の中に建てたのかと言うと、せっかく私の絵を見てもらうなら、その絵に関する環境というか、絵のなかの風景を想像できるような環境もしっかり見てもらった方がいいと思いまして、それが今の場所なのです。ただ、私の美術館の周りにはいろいろな木が植わっていますが、あれは最初からあったのではありません。いま開館から17年になりますが、その間に私が少しずつ植えたものなのです。更地にいきなりあのような環境ができたわけではなく、少しずつ作ったものです。植えたばかりの木は、いまよりずっと小さいものでした。だから、今のあの環境が最初からあったと勘違い(別に勘違いしても何も悪くないわけですが)した方が、安藤さんの美術館は本当にいい場所にありますねと言ってくれるのは、実はそれも私の仕事に対する最高の誉め言葉なのです。そういうときは、私はひそかにニヤニヤしながら喜んでいるのです。

質問 画材についてお尋ねします。先生はすべての絵を色鉛筆で描いていますが、使用されている色鉛筆は国産のものか、外国産のものか、またどうやって選ばれたかを教えてください。それから、畳何枚分にもなるようなかなり大きな絵も色鉛筆だけで描いていますが、そういうときは何本くらい色鉛筆を使われるのか。また、ストックはどれくらいお持ちなのか、教えてください。
安藤 えっと、答えているうちに忘れてしまうので、質問は一つずつにしてください。(会場爆笑)私の場合、確かに色鉛筆だけで絵を描いていますが、それはたまたま自分に合っていると思ったからで、画材としてどれがいいとか、そういうことはありません。だいたい20社か30社ほどの色鉛筆を取り寄せて、そのなかから自分に合っていると思うものを選んだら、それがたまたまドイツのファーバーカステル(Faber-Castell)社の120色セットのものでした。絵を描くときには、絵を楽しむのが一番大切ですが、画家として他人に売る絵を描くとなると、自分に合う画材を妥協せずに選んだ方がいいと思っています。私の場合は、それが今使っている色鉛筆だったということです。
何本色鉛筆を使ったか、実際に数えたことはないのですが、私の美術館に「泣き虫」という絵が飾ってありますね。あれは畳5枚分の大きさで、あのサイズの絵を今後描くことはそうはないだろうと思います。しかも、あの絵はオレンジ系と赤系と紫色系しか使っていません。あの絵を描くときに、途中で何度も追加発注などしたくなかったので、初めて8色ほどの色鉛筆を250本ずつ注文して、それらを200本から230本ずつ使用しました。(報告者注:200×8だと、少なめに見積もっても1600本!)そのような注文の仕方をしたのは、あの絵のときだけなので、他の絵についてはどれくらいの色鉛筆を使用しているかは分かりません。
まだ手を挙げている方がいらっしゃいましたが、これで時間になったということですから、今度是非うちの美術館に遊びに来てください。二人だけでお話しましょう。(会場爆笑)

(文責)佐野日本大学短期大学
 佐野学担当 川副令

参考リンク

[準備中]

PAGE TOP